第十二話 金庫
「金庫の開け方なんて知りませんよ」
詩織は金庫を見て、開口一番そう言った。
須崎は金庫に近づいた。
古い型だった。黒い扉には銀色の取っ手があり、その脇にテンキー式のロックが埋め込まれている。
表面には細かな擦り傷があり、何度も開け閉めされてきた事が窺えた。
香山の細い指が、金庫のテンキーに触れた。
須崎は、その指先を見て声を落とした。
「待ってください」
香山の肩が、ほんの少し跳ねた。
「ここは詩織さんの家です。ですが、その金庫が佐田頼仁氏の私物である以上、中身が何か分からないまま開けるべきではありません。会社関係の資料、相続に関わる書類、事故に関係するものが入っている可能性もあります」
須崎は、金庫の黒い扉を見た。
「自分たちは正式な捜査権限でここにいるわけではありません。ここで開ければ、見つかったものの扱いも、開けた経緯も、すべて曖昧になります」
「……ここまでついてきたくせに止めるんだ」
香山が静かに尋ねた。
須崎は香山から視線を逸らし、続ける。
「さすがに金庫まで開けるのは──」
香山は振り返らなかった。
金庫の扉に指を添えたまま、どこか遠いものを見るように目を細める。
それから、笑った。
須崎に向けた笑みではなかった。
「嫌だよ。それじゃあ僕が会いたがったせいで亡くなったみたいじゃない」
詩織の足音が、書斎の床を強く打った。須崎の横をすり抜け、香山の前まで歩いた。
香山が詩織を見上げた瞬間、乾いた音が、書斎へ響いた。
香山の顔が横へ逸れる。
詩織の手が、まだ宙に残っている。白い指先が震えていた。彼女の口からぽつり、ぽつり、と言葉が放たれる。
「……会いたかったんでしょ」
声は低かった。
怒鳴るよりも、ずっと冷えていた。
須崎は反射的に一歩踏み出した。
「詩織さん」
名前を呼んだだけで続く言葉が出てこなかった。叩いたことを咎めるべきだと思った。
「会いたかったから、気まぐれに電話したんでしょう。父が断れないことを知っていて」
「父は、あなたが会いたがったから死んだんです」
その言葉で、須崎は二人の間に割って入った。
詩織の肩に触れようとして、やめた。触れれば、彼女を制圧する形になる。けれど、このまま言わせていい言葉でもなかった。
「詩織さん」
声は低くした。
「そこから先は、事実と推測を分けてください」
詩織が須崎を睨んだ。
「この男を庇うんですか」
「庇っていません」
須崎は即答した。
「香山さんと佐田頼仁氏の間に、あなたへ伏せられている何かがある。それは私も感じています」
香山の視線が、わずかに動いた。
須崎はそれを見逃さなかった。
「ですが、それがあなたの言うような関係だったかどうかは、まだ分かりません。分からないまま断定すれば、あなた自身も傷つく」
「綺麗事ですね」
詩織は鼻で笑い、須崎を一瞥した。
「あなたも今、振り回されてるじゃないですか。父も同じです」
須崎は答えなかった。
それは否定できなかった。
香山慎之介には、そういうところがある。
頼み事の体裁を取っているが、相手に有無を言わせない圧がある。
そして、それを包み隠すようによく笑う。
だからこそ、須崎は香山を見た。
「香山さん」
今度は、明確に名を呼んだ。
「あなたもです」
香山は、赤くなった頬に指を添えたまま、薄く笑った。
「僕?」
「詩織さんの推測を否定しないなら、肯定したのと同じです」
書斎が静かになった。
香山の笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
「……須崎くんは、厳しいね」
「否定できるなら、してください」
「しないよ。今の僕には、詩織ちゃんを納得させられるものがない」
香山はふらりと立ち上がり、金庫へ視線を戻した。
「だから、開けようって言ってるんでしょ」
その言い方は、ひどく正しかった。
正しいように聞こえるだけで、どこか順番がずれている。
須崎はそれを指摘しようとした。
だが、口を開くより先に、詩織が言った。
「じゃあ、私が金庫を開けます。それなら構いませんよね、須崎さん」
須崎は詩織を見た。
彼女の顔には、まだ怒りの名残があった。けれど、その奥に別のものが混じっている。
父の死を確かめたいという焦り。
香山の言葉に従いたくないという意地。
それでも、金庫の中を見ずにはいられないという、切実な欲。
須崎は短く息を吐いた。
「君が開けること自体は、私が止める立場にはない。ここは君の家だ。だが、中身によっては、扱いを間違えれば問題になる」
「分かっています」
詩織は即答した。
分かっている声ではなかった。
分かっていなくても進む、と決めた声だった。
須崎は眉を寄せる。
「それに、番号が分からないんじゃないか」
詩織の視線が、金庫の黒い扉へ落ちた。
その沈黙を待っていたように、香山が口を開く。
「じゃあ詩織ちゃん。これから僕が言う番号を順番に押してみて」
詩織は無言でテンキーに指を添えた。
「まずは、君の誕生日。1206」
詩織の指が、ひとつずつ数字を押す。
一。
二。
零。
六。
小さな電子音が四度鳴った。
詩織は取っ手に手をかける。
開かない。
黒い扉は、何も答えなかった。
香山は金庫を見たまま、静かに言った。
「違うか」
その声は、残念そうにも聞こえた。
けれど須崎には、最初から知っていたようにも聞こえた。
「次」
香山は少しだけ間を置いた。
「美和子さんと頼仁さんの結婚記念日」
詩織の指が止まった。
「……どうして、あなたがそれを知っているんですか」
「頼仁さんから聞いたことがある」
香山はそれだけ言った。
詩織はしばらく香山を睨んでいたが、やがて言われた通りに数字を押した。
また、開かなかった。
今度は、詩織の顔から怒りが抜けた。
怒りが消えたのではない。
もっと奥へ沈んだのだ。
須崎は、そこで気づいた。
香山は番号を探しているのではない。
違うものを、ひとつずつ消している。
娘ではない。
妻でもない。
その先に何が残るのか、香山はもう知っている。
「最後」
香山の声が、少し低くなった。
詩織が顔を上げる。
「何の番号ですか」
香山は答えなかった。
「0412」
詩織の指が、止まる。
「……何の番号ですか」
香山は答えない。
詩織は、ゆっくりと数字を押した。
零。
四。
一。
二。
一拍遅れて、金庫の奥で低い音がした。
開いた。
書斎の空気が止まった。
詩織は取っ手に手をかけたまま、香山を見ている。
「今の、何の番号ですか」
香山は笑わなかった。
「開いたなら、それでいいでしょ」
須崎は、すぐには声が出なかった。
その数字を、知っている。何度か、香山の人事関係の書類で見たことがあった。四月十二日。
香山慎之介の誕生日。
佐田頼仁の金庫は、娘の誕生日でも、亡き妻との記念日でも開かなかった。
香山慎之介の誕生日で、開いた。
須崎は、奥歯を噛んだ。
詩織は取っ手に手をかけたまま、動かなかった。
「……今の、何の番号ですか」
香山は答えない。
「香山さん」
詩織の声が、かすかに震えた。
「何の番号か聞いてるんです」
香山は金庫の黒い扉を見ていた。
視線はそこにあるのに、何か別のものを見ているようだった。
「開いたなら、それでいいでしょ」
「よくありません」
詩織は即座に言った。
「私の誕生日でも、母との記念日でも開かなかった。なのに、あなたが言った番号で開いた。何なんですか、それ」
香山は微笑んだ。
笑った、というより、そういう顔を作っただけだった。
「頼仁さんにも、色々あったんじゃないかな」
「ふざけないでください」
詩織の指が、取っ手を握りしめる。
白くなった指先を見て、須崎はようやく口を開いた。
「詩織さん」
自分でも思ったより低い声だった。
「今は中を確認しましょう。ただし、出てきたものには不用意に触らないでください」
詩織は須崎を見た。
睨んでいるのに、目の奥はもう怒りだけでは支えきれていなかった。
「……分かっています」
分かっている声ではなかった。
それでも、彼女は取っ手を引いた。




