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公安のファムファタールは暴かれたい  作者: 篠川織絵


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第十一話 佐田邸

「ここに帰ってくるのも久しぶりですね」

蔓草模様をあしらった黒い鉄の門扉をゆっくりと開きながら、詩織(しおり)は呟く。


「取材陣が押し寄せてて、なかなか帰してあげられなかったからね」


香山(かやま)は少しだけ目を伏せて、静かに微笑んで答えた。

その視線は、初めて訪れた者のものではなかった。


須崎(すざき)は門扉の先を見てから、ふと眉をひそめた。


「待ってください。鍵は誰が持っているんですか」


その隣で金属質な音が鳴る。香山は鍵束のリングを指に掛け、軽く揺らしてみせた。


「大丈夫だよ。僕が持ってきたから」


須崎は驚いた。彼が鍵を持っている事を、詩織はさして疑問に思っていなかったからだ。

彼女はそれを香山の指から強引に引き抜いた。


「準備が良くて助かりました」


やがて、詩織の手で玄関扉が開かれた。


玄関の奥には、磨かれた木の床が続いていた。

壁には、幼い詩織と佐田頼仁(さたよりひと)、そして一人の女性が写った家族写真が飾られている。


須崎は、壁に飾られた家族写真を見て、詩織に尋ねた。

「これが、佐田頼仁(さたよりひと)さんと──」


詩織が靴を揃えながら答える。


「母の佐田美和子(さたみわこ)です。母は、私が幼い頃に病気で亡くなりました」


写真の中の詩織は、今よりずっと幼かった。

濃紺に丸襟がついたワンピースで、佐田頼仁の腕に少しだけ寄りかかっている。笑っている、というより、笑わされている顔だった。


幼い詩織の顔を見た瞬間、須崎は妹のことを思い出した。


妹の由希子も、幼い頃はよくああいう顔をした。

写真を撮られる直前、母に「笑いなさい」と言われ、父の機嫌を損ねない程度に口角を上げる。

笑顔の形だけを、先に覚えた子どもの顔。


磨かれた床。

揃えられた靴。

父の革靴だけが、いつもわずかにこちらを向いていたこと。

その靴先の前で、背筋を伸ばして立っていた自分と、少し後ろに隠れる由希子。


──透。


父の声が、耳の奥で鳴った気がした。


須崎は反射的に顎を引いた。

視界の端が白く滲む。床の木目がゆっくり歪み、玄関の奥行きが一瞬だけ遠のいた。


「須崎さん?」


詩織の声で、現実に引き戻される。


「......なんでもない」


そう答えた声は、思ったよりも掠れていた。


香山が、須崎の肩にそっと手を添えた。


「家族写真──苦手?」


須崎は写真立てから目を離せないまま、返事をしなかった。


香山は、どこか懐かしむように目を細める。


「僕も苦手だったよ。幼稚園の願書用に撮ったとき、写真館の人にずっと言われたんだ。もう少し家族らしく、って」


その声は、慰めの形をしていた。


けれど、須崎には分かった。

香山が思い出しているのは、家族ではない。

家族に見せるための手順だった。


「だから、大丈夫だよ。写真なんて、そんなものだから」


そこで、詩織の冷たい声が割り込んだ。


「それで、受かったんですか?」


その問いに、須崎の喉がわずかに詰まった。詩織は香山に向けて言ったのだろう。

けれど、その言葉は須崎の方にも届いてしまった。


香山は一瞬だけ瞬きをした。


「もちろん」


「でしょうね。落とした方が問題になりそうですし。あと、二人揃ってじろじろ我が家の家族写真見ないでください」


詩織はそう言って、写真立てを伏せた。


須崎の肩から、香山の手がゆっくり離れる。

その温度だけが、妙に長く残った。


「じゃあ、手分けしようか。詩織ちゃんは自分の部屋を見てきて。頼仁さんが、君にだけ分かる形で何か残してるかもしれない」


香山は靴を脱ぎながら、何気ない顔で続けた。


「須崎くんは、美和子さんの部屋を見てくれる? 頼仁さんの話と繋がるものがあるかもしれないから」


詩織は不服そうに香山を睨んだ。

それでも、父が自分にだけ何かを残したかもしれない、という言葉は無視できなかったらしい。


「……分かりました」


そう言って、彼女は自室へと向かった。

須崎はその背中を見送りながら、香山を見た。香山は、何事もなかったように微笑んでいる。


まるで、最初からこうなると分かっていたように。


「じゃあ、須崎くんはこっち。美和子さんの部屋は、頼仁さんの書斎の隣だから」


香山が言った通り美和子の部屋は、頼仁の書斎の隣にあった。

美和子が亡くなったのは、随分と前のことだろう。正直、いまさら調べる意味が無いように思えた。


けれど、香山に促された以上、それに静かに従うほかない。


須崎は金属製の冷たいドアノブへと触れた。扉を開いた瞬間、須崎は思わず足を止めた。

古びてはいるものの、化粧台、机、本棚。

すべて埃を被っていなかった。


まるで昨日まで誰かがここで髪を梳き、机に向かい、本を手に取っていたような顔をしている。


そして、次に驚いたのは、薬学書の多さだ。


有機化学、薬理学、製剤学。

背表紙の文字は硬く、色褪せている。

けれど、どの本も飾り物のようには見えなかった。


佐田製薬の令嬢。

その肩書きの奥で、佐田美和子という女が、何を学び、何を期待されていたのかが、棚の沈黙から滲んでいるようだった。


薬学書の棚に、一冊だけ異物があった。


古びた『源氏物語』だった。


どれもが佐田美和子という女に課された役割を示すような背表紙の中で、その本だけが、役割からこぼれ落ちた私物かのように沈んでいた。


須崎はそれを手に取った。

表紙は乾いていて、長いあいだ誰にも開かれなかったものの手触りがした。


けれど、忘れられていた本ではない。

忘れないために、ここへ置かれていた本のように見えた。


須崎は思わず表紙をめくってしまった。それは彼女の中を垣間見る行為だった。


開いた拍子に、薄い紙片が床へ落ちた。


短く何か書かれている。


須崎は屈んで、そこへ書かれている文字を読んだ。


『面白かったよ。ありがとう。K』


やけに達筆な字だった。Kといえば香山を連想させるが、香山の筆跡でない事は確かだった。須崎は普段から香山が書いた字を嫌というほど見ている。


香山の字も随分と綺麗だが、線が細い。


須崎は紙片を拾いあげ、元の頁へ丁寧に挟み込んだ。


これ以上、この本に触れる必要はない。

佐田美和子という女の、ごく私的な場所へ踏み込む理由は、少なくとも須崎にはなかった。


本を元の棚に戻し、須崎は周辺を軽く確認した。


化粧台の引き出し。机の上。棚の隅。


しかし、これといって事件に繋がるものはなかった。


そもそも、佐田頼仁が何かを残していたとしても、亡き妻の美和子の部屋に置いておくとは考えにくい。


では、なぜ香山は自分をここへ向かわせたのか。


須崎は部屋を後にし、香山のいる隣の書斎へ向かった。


書斎の扉は半開きになっていた。

その隙間から、香山が佐田頼仁の書斎机付近で屈んでいるのが見える。

須崎は「香山さん」と、呼びかけようとして、口を閉じた。


紙の擦れる音がした。


扉の角度から、室内のすべてが見えたわけではない。


ただ、壁際のガラス戸棚に、香山の手元だけが映っていた。


少し膨らんだ封筒。

その口から、写真の端が覗いている。


香山の指が、写真を押し戻す。

だが、しまい切る直前で、動きが止まった。


香山は、その写真を見ていた。


次の瞬間、写真は封筒の中へ消えた。

そして、封筒も彼のジャケットの内側へと消えた。


香山は何事もなかったように立ち上がる。


「……香山さん」


須崎が呼ぶと、香山はゆっくり振り返った。


「須崎くん。美和子さんの部屋はどうだった?」


彼の声はいつも通り軽快で、彼の表情もまたいつも通り柔和だった。


「いえ、こちらは特に、なにも──」


「僕も、まだ目ぼしいものは見つけられてないや」


香山は首を傾げて笑った。香山は笑っている、笑っているはずなのに、須崎はそれを見て嫌な汗をかいた


美和子の部屋へ向かった自分。

自室へ誘導された詩織。

頼仁の書斎に真っ先に向かった香山。


その順番が、今さらひとつの可能性を持ち始める。


香山は普段の調子で続ける。


「そっか。だったら詩織ちゃん呼んできてよ」


彼は、部屋の脇にある金庫を指差して微笑む。


「ほら、あの金庫、怪しいと思わない?」


須崎は、問い返すタイミングを失った。金庫を見た。見るしかなかった。


けれど、香山が本当に探していたものは、そこではなかった気がした。

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