第六十八話 帝国皇帝がエリクサーの独占を要求した
帝国の使節が再び現れたとき、工房の応接室には大きな金庫が運び込まれた。
蓋が開くと、金貨が光を跳ね返した。
「前金だけで十万枚。契約成立後、残り九十万枚を支払う」
使節は胸を張った。
「皇帝陛下は、あなたを帝国最高錬金術師に迎えるおつもりです」
帝国の使節は金貨を並べたまま、レイヴンの返答を待った。
「その金で何人救えると思う」
と使節が問う。
「その契約で何人が薬を買えなくなるかも、数えてください」
レイヴンは金庫を閉じさせ、供給の条件を書いた紙だけを受け取った。
レイヴンは契約書を読んだ。
研究費の保証、邸宅、爵位。
どれも破格だった。
だが最後の条項には、帝国以外へのエリクサー供給と製法提供を停止すると書かれていた。
「これを受けたら、隣国の患者はどうなりますか」
使節は途中で条件を変え、帝国への優先出荷だけでも認めるよう迫った。
レイヴンは患者数に基づく緊急配分なら検討できると答えたが、国の強さを理由に順番を決めることは拒んだ。
「帝国の許可を得た国だけが購入できます」
「許可が下りなかった国では?」
「外交とは、そういうものです」
使節は当然のように答えた。
レイヴンは契約書を閉じた。
「お断りします」
在庫の数字は冷酷だった。
魔石が止まれば、病院に届く薬が減る。
リーナは各地の患者数を地図に書き込み、先に不足する地域を赤く塗った。
危機を隠さないことが、次の一手を選ぶための出発点だった。
使節の表情が変わった。
「金貨百万枚ですよ。あなたが生涯かけても使い切れない」
レイヴンは窓の外を見た。
農園で働く人、工場へ向かう職人、診療所に急ぐ治癒師。
「その金で、この人たちの仕事を止める理由はありません」
ゴルバは古い魔石を割り、内部の模様を拡大して見せた。
使い切ったはずの結晶に、細い光の道が残っている。
レイヴンはその線を追い、再生という言葉を初めて口にした。
使節は最後に声を低くした。
「帝国は大陸の魔石の多くを握っています。原料が届かなければ、あなたの工場は止まる」
レイヴンは驚かなかった。
エルナからすでに輸入先の偏りを指摘されていたからだ。
「脅しも、契約条件に含まれるのですか」
使節が去ると、ゴルバは怒りを隠さなかった。
「金で命を買い占める気か」
しかしレイヴンは会議を開き、輸入魔石の在庫を確認した。
怒っているだけでは工場を守れない。
三か月分の備蓄がある地域と、一か月も持たない地域があった。
マリシアは患者への説明を急ぐよう求めた。
供給が減る可能性を隠せば、病院は備えられない。
リーナは各国の診療所へ緊急の需要調査を送った。
エルナは代替触媒を、ゴルバは魔石再生装置の旧図面を探し始めた。
レイヴンは契約を断った理由を工房の仲間に説明した。
金額が大きいほど、決断は一人の美談にされやすい。
しかし断った結果、仕事や薬が失われるなら、仲間の生活にも責任がある。
だからこそ、彼は対策を全員と考えることにした。
帝国の金庫を運び出すと、部屋が急に広く感じられた。
ゴルバは空いた床を見て言った。
「ここに新しい装置が置けるな」
レイヴンは思わず笑った。
目の前の金より、作るべきものを考える仲間がいる。
それが何より心強かった。
イザベル女王は秘密裏に、隣国の備蓄を一部融通できると申し出た。
レイヴンは感謝しつつ、協定に基づく正式な手続きを求めた。
裏取引で危機をしのげば、次の危機で誰も制度を信じなくなる。
皇帝の使者は契約書の末尾を指した。
「独占を認めれば、貴国の工場は守られる」
レイヴンは署名欄を閉じた。
「守られるのは工場だけでしょう。契約の外にいる患者はどうなる」
使者は答えず、紙を引き戻した。
研究室の棚には、使い終えた魔石がいくつも置かれていた。
昔なら廃棄するだけのものだ。
レイヴンは一つを掌に載せた。
価値がないと決めつけられたものの中に、まだ役立つ可能性がある。
追放された日の自分と、どこか似ていた。
帝国の使節が去ったあとの沈黙を、工場の鐘が破った。
交代の時刻だった。
職人たちはいつもどおり持ち場へ向かい、薬の製造を続けた。
使節の言葉が工房に広まると、作業員の中には不安から退職を考える者も現れた。
家族を養うには、安定した仕事が必要だ。
レイヴンは全員を集め、帝国が魔石を止めれば減産の可能性があると率直に話した。
そのうえで、備蓄、代替原料、再生技術の研究計画を示した。
誰かが尋ねた。
『成功する保証はありますか』
『ありません』
沈黙が落ちた。
レイヴンは続けた。
『でも、できないと決める前に試せることがあります』
ゴルバが真っ先に手を挙げた。
続いてエルナ、検査員、若い職人たちが手を挙げた。
その夜、レイヴンはかつて王宮から追放された日のことを思い出した。
あのころは誰にも必要とされないと思っていた。
今は多くの人の期待が重い。
それでも、期待に応えるために誰かを見捨てる契約を結ぶことはできない。
彼は机の灯を近づけ、魔石の古い研究記録を開いた。
使節が帰る前、リーナは各国の病院から届いた未処理の依頼書を金庫の上に置いた。
「ここに名前がある人たちは、帝国の臣民ではありません。それでも明日まで待てない人がいます」
使節は金貨の山を見たまま黙った。
レイヴンは独占契約の条項に線を引き、
「皇帝にお伝えください。帝国の患者も、他国の患者と同じ基準で救います」
と告げた。
使節が残した脅しの文言を、彼は全員の前で読み上げ、供給停止に備えた代替計画を始めた。
夜、マリシアは備蓄の確認の記録を読み返した。
うまくいったことだけでなく、失敗と迷いも残されている。
明日の誰かが同じ危険を避けられるようにするためだ。
彼女は最後の一行を書き終え、机の灯を消した。
その後、レイヴンは工房へ戻り、備蓄の確認について担当者から直接話を聞いた。
書面では見落とす小さな困りごとがあった。
彼は急いで結論を出さず、明日までに試せる方法を一緒に考えた。
大きな計画ほど、現場の声を置き去りにしてはならない。
帝国の要求は不安を抱えていた。
リーナは一人ずつ話を聞き、何を約束できて何を約束できないかをはっきり伝えた。
安心させるための嘘は、いつか信頼を壊す。
だから彼女は、分かっていることを丁寧に説明し、次に知らせる時刻を決めた。
夜、レイヴンは使節が置いていった金庫を返送する手配をした。
最後の一枚まで数え、受領書に署名をもらう。
大金を断ることより、断ったあとの責任を引き受ける方が難しい。
彼は工房の明かりが消えないのを確かめ、研究室へ戻った。




