第六十話 誰もが治療を受けられる王国へ
施行初日、診療所の前には長い列ができた。
列の最後で母親にしがみつく少年は、以前の病院で財布を見せた途端に追い返されたことがある。
受付係が名前を尋ねても答えられず、母親は帰ろうとした。
リーナは列を抜けて二人に椅子を勧めた。
「診察の前にお金の話をしなくていいよう、今日から決まりが変わったんです」
ところが母親は身分証を持っていなかった。
係員は規則に従い受付を止める。
リーナは例外扱いで押し通さなかった。
王女へ連絡し、本人確認を後日行う仮診察券と、不正利用を防ぐ確認手順をその場で提案した。
窓口の係員が責任を負わずに済むよう、決定者と期限を記録した。
少年の熱が下がった夕方、母親は仮診察券を見つめて尋ねた。
「明日も来ていいのですか」
リーナは答えた。
「来てください。明日はあなたの名前で正式な券を作りましょう」
議会では治療費を誰が負担するのかが争点になった。
エリクサーの収益だけでは制度を維持できない。
王女は税と公的購入の透明性を求め、工房側は適正価格と長期供給契約を提案した。
医療制度の施行日に、最初の診療所へ来たのは治療を受ける患者ではなく、帳簿を持った村長だった。
「この村の老人は歩いて来られません」
レイヴンは地図を広げ、巡回路を書き足した。
法律が整っても、扉まで来られない人がいる。
新しい王国の医療は、診療所から出ていくところから始まった。
エルナは薬草農園の農民たちに、新制度で原料需要が安定することを説明した。
一方で過剰な連作を避けるため、作付け計画を見直した。
医療制度は診療所だけで成り立たない。
土を耕す手も、患者を支えていた。
新しい制度の最初の予算書には、薬の購入費だけでなく、診療所の修繕費と医療従事者の給与が記されていた。
治療は一本の瓶だけで完結しない。
ゴルバは全工場の安全基準を統一するため、装置の点検表を作った。
故障を隠せば資格を失う厳しい制度だ。
彼は職人たちに言った。
「壊れた機械を直すより、壊れたことを隠す癖を直す方が難しい」
医療学校では、卒業を控えた生徒たちが最後の実習を行っていた。
リーナは患者の症状を聞き取り、治療後の注意を説明した。
彼女の声には、かつて病床で泣いていた少女の面影と、今の自信が同居していた。
国王は議会で修正された医療改革法に署名した。
最初の施行地域は貧民街と遠隔の村に定められた。
華やかな儀式よりも、診療所の戸が開く日付の方がレイヴンには大切だった。
レイヴンは制度ができたことに安心しきらず、苦情を受け付ける窓口を提案した。
間違いを指摘できない制度は、やがて人を傷つけるからだ。
新制度の最初の週、診療所では申請用紙が足りなくなった。
マリシアは患者の列を見て、薬の配布より先に受付を増やすよう頼んだ。
制度は布告だけで完成しない。
遠い村へ届ける輸送費も、医師の給料も、翌年の予算に書き込まれた。
マリシアは百人の卒業生を前に立った。
「皆さんが持つのは薬だけではありません。患者の話を最後まで聞く力です」
リーナは卒業証書を受け取ると、レイヴンを見つけて微笑んだ。
代表として壇上に立ったリーナは、自分が貧民街で倒れた日のことを話した。
「私が生きていることが、この改革の答えです」
会場は静まり、やがて拍手が広がった。
レイヴンはその拍手を、自分ではなく彼女と仲間たちに向けられたものとして聞いた。
国王は式の後、レイヴンに再び礼を述べた。
今度は娘の命ではなく、国の制度を変えたことへの感謝だった。
レイヴンは
「制度は守り続けなければ消えます」
と答えた。
国王は真剣に頷いた。
卒業式の後、リーナは最初に助けられた小さな診療所へ戻った。
入口の古い看板を磨き、そこに書かれた言葉をゆっくり読み返した。
その夜、隣国からの病状報告を読んだレイヴンは、第二世代エリクサーの研究計画を書き始めた。
救える命が増えたからこそ、まだ救えない命が見える。
工房の灯は遅くまで消えなかった。
その日の午後、新制度の診療所で、マリシアは身分証を持たない親子と向き合った。
身分証を持たない親子は受付の前で引き返そうとした。
その言葉に、周囲の者は答えを急いだ。
しかしマリシアは、相手が言い終わるまで遮らなかった。
リーナは緊急診療票を手渡し、あとで手続きをする間も治療は止めないと説明した。
誰かが
「それで十分ですか」
と尋ねた。
十分だと言える人はいなかった。
それでも、いま確かめられる事実を一つずつ積み上げるしかなかった。
施行から三日後、巡回診療の馬車が山間の村へ着いた。
受付で戸惑っていた若い係員は、初日にリーナが作った仮診察券の手順を取り出し、名前を書けない老女の話を聞いた。
老女は薬より先に、次に馬車が来る日を尋ねた。
係員は日付を大きな絵で示し、村長と連絡役を決めた。
制度の最初の成功は、王都の窓口だけで終わらなかった。
一週間後、仮診察券を使った患者の名簿が議会に提出された。
数字は予想を上回ったが、王女が注目したのは末尾の空欄だった。
山道が崩れて巡回馬車の来られなかった村が一つある。
リーナは医師を増やすだけでは足りないと知り、村の助産師に緊急連絡の方法を教えた。
初日に受付で立ちすくんだ少年は、その村へ運ぶ包帯を母親と一緒に箱へ詰めた。
自分が助けられたことを、まだ会ったことのない誰かへ渡したかったのだ。
制度の初月、診療所の受付係は自分の失敗を議会の報告書に書いた。
仮診察券の説明が難しく、文字の読めない患者を一度帰してしまったのだ。
係員は処罰を覚悟したが、リーナは報告書を読んで、説明文を短くし、窓口に絵を掲げることを提案した。
患者は翌日戻り、係員から直接説明を受けた。
係員は深く頭を下げた。
「あなたが来なかったら、私はこの規則の穴に気づきませんでした」
患者は困ったように笑い、診察室の扉を開けた。
受付係は翌日から、新しく来た職員にも同じ説明をした。
規則を覚えるだけでは足りない。
目の前の人がその規則を使えるか、確かめる必要がある。
リーナは廊下の端でそれを聞き、静かにうなずいた。
翌週、巡回診療車が山村に到着した。
少年は熱の下がった顔で母親と並び、今度は自分から名を告げた。
マリシアは薬を渡すだけでなく、次の診察日と連絡先を手渡す。
母親は診察券を胸にしまった。
救われたのは今日一日ではなく、次に病気になったときの選択肢だった。




