第五十三話 千人の治癒師が神殿を離反した
マリシアの机には、村から届いた報告を読んだ治癒師たちの手紙が山積みになった。
処罰を恐れる者、家族を抱える者、神殿を愛する者。
それでも患者を拒めないと書かれていた。
レイヴンは手紙を数えなかった。
一通ごとに、決断しなければならない人生がある。
神殿を去る治癒師の一人は、年老いた師に頭を下げた。
「あなたから教わった祈りを、捨てるつもりはありません」
師は返事をせず、薬箱を差し出した。
許しの言葉はなかった。
それでも弟子は、その重みを抱えて門を出た。
神殿を離れれば住居と食事、資格を失う者が多かった。
マリシアは勢いで離反を呼びかけず、生活費と働く場所の計画を作った。
ゴルバは工場の空き倉庫を診療研修所に改造し、エルナは食堂のために畑の一角を提供した。
各地の代表が集まった会議で、誰が命令するかをめぐって議論が紛糾した。
マリシアは中央の椅子を空けたまま、患者の情報を共有する規則から決めようと提案した。
大切なのは新しい権力者を作ることではない。
どこで患者が倒れても、助けを呼べることだ。
神殿の宿舎を出る治癒師の荷物は驚くほど少なかった。
替えの衣服、使い込んだ診察道具、患者から貰った手紙。
長年の奉仕の対価がその程度だったことに、レイヴンは胸を痛めた。
若い治癒師マイラは、神殿の教えを否定することになるのかと尋ねた。
マリシアは首を振った。
「祈りはあなたのもの。治療を拒む命令は、誰のものでもない」
マイラは長く握っていた紋章を胸から外し、机の上に置いた。
レイヴンはエリクサーの使用手順を示した。
薬の効果を過信せず、患者の体調と既往症を確認する。
製造番号も記録する。
治癒師たちは魔法だけでなく、観察と衛生を学び直す必要を理解した。
ルシアンの使者は離反者を全員破門すると通告した。
会議室は静まり返る。
マリシアは使者に言った。
「破門状を千枚用意してください。その間に私たちは千人を診察します」
参加希望者は予想を超えた。
署名の数が千に達したとき、会議場に拍手は起きなかった。
皆が重い責任を理解していた。
レイヴンは署名簿の一枚目にトーマの村の名を書き添えた。
誰のために始めたのか忘れないためだ。
離反者の中には、神殿の宿舎を失い行き場のない者もいた。
千人の署名が集まっても、翌朝の寝床は生まれない。
マリシアは診療所の空き部屋を開け、リーナは町の食堂を回った。
「誓いを破った」
と責める声もある。
彼らはそれでも患者のところへ向かった。
マリシアは連絡網を一枚の大きな地図に書き込んだ。
村の診療所から次の診療所まで、徒歩なら何時間か、馬車ならどこで馬を替えるか。
地図には病名よりも人の通る道が増えていった。
独立した治癒師たちは、神殿が閉鎖した三つの診療所へ向かった。
雨の中を歩く列には、医療学校の卒業生も加わった。
リーナは包帯箱を抱えながら
「私にもできる仕事がある」
と笑った。
新組織の旗には神殿の紋章も王家の紋章もなかった。
白地に小さな青い灯が描かれていた。
マリシアはその旗を患者の目線に合わせて低く掲げた。
救いに来たと分かれば、それで十分だった。
離反を決めた治癒師の一人が、神殿に残る妹の名を口にした。
「私が出れば、あの子の住まいまで奪われる」
マリシアは新組織の雇用契約を差し出したが、署名を急がせなかった。
翌朝、その治癒師は妹を連れて現れた。
「患者を選ばない職場なら、妹にも胸を張れます」
千人という数字の裏に、千通りの生活がある。
レイヴンは新組織の最初の予算に、住居と再訓練の費用を書き込んだ。
千人の離反は神殿の権威を揺るがせた。
一方、王都の議会では宰相が
「国家秩序を脅かす私兵集団」
と非難を始めた。
レイヴンはその言葉に嫌な予感を覚えた。
医療の連絡網を、軍隊に仕立てるのは容易い。
新しい組織は寄付だけに頼らず、工房からの適正な報酬と公的契約で維持する方針を定めた。
善意を使い潰す仕組みを作れば、また同じ過ちを繰り返すからだ。
その日の午後、神殿を離れる治癒師の受け入れで、マリシアは住居を失う若い治癒師と向き合った。
住居を失う若い治癒師は家族を養うため署名を取り消そうとした。
その言葉に、周囲の者は答えを急いだ。
しかしマリシアは、相手が言い終わるまで遮らなかった。
レイヴンは新しい診療所の給与表を開き、最初の三か月の支払いを保証する方法を示した。
誰かが
「それで十分ですか」
と尋ねた。
十分だと言える人はいなかった。
それでも、いま確かめられる事実を一つずつ積み上げるしかなかった。
会議が終わるころ、反対の声が上がった。
「そんな手間をかけていたら、間に合いません」
マリシアは窓の外へ目を向けた。
神殿を離れる治癒師の受け入れには、結論を待つ人がいる。
急ぐ理由は確かにある。
だが、焦りを理由に危険を隠せば、次に失うものはもっと大きい。
「今日できることと、明日まで待つべきことを分けましょう」
反対した者も、しばらくして作業の順序を尋ねた。
夕刻、住居を失う若い治癒師がもう一度戻ってきた。
昼間には言えなかったことがあるという。
マリシアは手を止めた。
相手が恐れていたのは、失敗そのものではない。
失敗を告げたあと、誰にも信じてもらえなくなることだった。
話を聞いていた若い職員は、予定表の一行を消し、代わりに確認の時間を書き込んだ。
小さな変更だったが、現場の人々には意味があった。
新しい診療所に初めて灯がともった夜、マリシアは椅子に座ったまま眠っていた。
レイヴンは毛布を掛け、明日の患者名簿をそっと閉じた。
千人の署名は勝利ではない。
明日も患者の前に立つという、千人の約束だった。
離反を決めた治癒師の一人が、署名の直前に手を止めた。
神殿に残した妹の学費を誰が払うのか。
マリシアは
「勇気を出せ」
とは言わず、三か月分の生活費を示した。
ただし支援金は有限で、全員を同時には雇えない。
希望者を地域ごとに分け、先に人手の足りない診療所へ派遣する案を出すと、若い治癒師は妹に手紙を書いた。
「明日から患者を選ばない仕事をする」
その手紙を投函してから、ようやく署名した。
マリシアは離反届に署名した後、神殿に残る弟子の顔を思い出した。
彼女が去れば、その弟子の寝床まで奪われるかもしれない。
「私の名を先頭に書いてください」
と彼女は言った。
「若い人の名は最後でいい」
治癒師たちは全員が同じ日に去るのをやめ、村ごとに代わりの診療所を確保してから移ることにした。
反抗のために患者を置き去りにはできなかった。
治癒師たちの退職届は同じ筆跡ではなかった。
震える文字も、迷って消した跡もある。
マリシアは署名の数より、離反した後に家族が暮らせるかを気にした。
診療所ごとの寝床と給与を確認し、受け入れ可能な人数だけを掲示した。
受け入れ先の担当者には、翌朝までに各人の配置を知らせることにした。




