第二十一話 王女の命は、あと七日
王宮の廊下は、薬草の匂いがしなかった。
王女の寝室の扉の外で、医師は七枚の紙を並べた。
日ごとの容体予測だった。
三枚目から先には、もう脈の数値が書かれていない。
レイヴンは残された時間を数えるより先に、何を確かめれば治療の危険を減らせるかを尋ねた。
王女は薄く目を開け、答えを聞こうとしていた。
七日という数字を聞いた王女は、医師より先に侍女の顔を見た。
「私が眠っている間、あなたは休めた?」
侍女は答えられなかった。
レイヴンは治療計画に、患者だけでなく看護する人の交代時間を書き込んだ。
磨かれた石床、花を活けた銀の壺、衛兵の靴音。
貧民街の診療所にはないものばかりだ。
だが、病室の扉を開けたレイヴンが最初に見たのは、使い古した水差しと、何度も握り直された寝具の端だった。
王女エレオノーラは、二十歳になったばかりだという。
白い寝台に横たわる腕は細く、指先に淡い紫の筋が走っていた。
「昨日から、目を開ける時間が減りました」
医師長が声を落とす。
「心臓の周囲に魔力の沈着が進んでいます。七日。長く見積もっても、それ以上は」
国王グランツは窓のそばに立っていた。
以前、頭を下げたときより、背中が小さく見えた。
王女の枕元には、七本の蝋燭が並んでいた。
侍女は毎朝一本ずつ消す決まりだと言った。
「陛下が、残りの日を忘れないように」
レイヴンはその習慣を止めさせた。
代わりに脈拍と呼吸数を記録する紙を求める。
「日数ではなく、変化を見ます」
王女は薄く目を開け、
「明日も測って」
と囁いた。
王女が残した花の名を見て、レイヴンは庭師を呼んだ。
花は七年前に病室の窓から見えた品種だったという。
彼は研究記録の空白の日付と、庭の水路を改修した日を照らし合わせた。
偶然かもしれない。
だが命の期限が迫るいま、確かめない理由はなかった。
レイヴンは鞄から小さな観察結晶を取り出した。
かつて王宮では『余計な検査道具』と笑われたものだ。
結晶を王女の手首に近づけると、淡い光の中に細い黒線が浮かび上がった。
「これは、ただの魔力侵食症ではありません」
「どういう意味だ」
国王が近づく。
「魔力が体を傷つけているだけなら、エリクサーで損傷を修復できます。ですが、殿下の体内には、傷を作り続ける粒子が残っています。薬を投与しても、原因が残ればまた悪くなる」
医師長は首を振った。
「そのような粒子は、検査で見つかっていません」
「従来の検査は、魔力の総量を測ります。私は流れの乱れを見ています」
レイヴンは紙に細かな線を描いた。
黒い粒子が血液に沿って巡り、心臓付近で集まる様子。
病状が悪化した時期と、王宮の井戸を改修した時期が重なっていることも書き添える。
「井戸?」
マリシアが顔を上げた。
彼女は王宮への同行を許され、王女の脈を診ていた。
リーナが倒れたとき、同じような紫の筋を見たのを覚えている。
「貧民街の井戸から検出された汚染物質と、波形が似ています。ただし、こちらのほうが濃い」
翌日の会議で、医師長は王女の体調を示す表を壁に貼った。
発熱の高さだけでなく、目を開けていた時間、食事を取れた量、痛みの訴えを一緒に記す。
「昨日より悪いところもありますが、保てているところもあります」
と彼は言った。
レイヴンは一つずつ確かめた。
治療の期限を七日と決めても、王女の体は時計の針に合わせて変化するわけではない。
毎日の小さな変化に応じて手順を変える必要がある。
会議が終わると、王女の侍女がレイヴンを呼び止めた。
「殿下は、みんなが怖い顔をしているのを気にしています」
レイヴンは頷き、病室へ戻ると、薬の話をする前に庭の花の話をした。
王女はほんの少し笑った。
その笑顔も、今日の大切な記録だった。
国王の顔色が変わった。
「王宮の水は毎日検査している」
「水そのものは、今は安全かもしれません。問題は、七年前に何が起きたかです」
王女が薄く目を開けた。
「……父上」
国王が膝をつく。
「ここにいる」
「庭の……白い花は、咲きましたか」
国王は答えられなかった。
春の庭を見せると何度約束しただろう。
王女はそのたび、寝台の上で季節を数えていた。
「咲いていますよ」
マリシアが代わりに答えた。
「窓から見える木の下に」
研究室に戻ったレイヴンは、医師長に追加の質問をした。
「王女殿下が初めて倒れた日の食事と水の記録は残っていますか」
医師長は七年前の手帳を取り出した。
そこには熱、食欲、眠りの深さが、毎日小さな字で書かれている。
「治せないと分かっていても、記録するしかなかった」
と医師長は言った。
レイヴンはその手帳を丁寧に受け取った。
「その記録が、今の私たちを助けます」
数字の一つひとつが、医師たちの諦めなかった日々だった。
王女は微かに笑った。
「歩いて、見に行きたい」
レイヴンはその声を聞き、結晶を握り直した。
病気の名前でも、王家の血筋でもない。
ただ庭を歩きたいと願う人が目の前にいる。
「治療薬を作ります。ただし、時間をください」
「どれほどだ」
「七日以内に。高純度のエリクサーと、汚染粒子を分解する触媒を完成させます」
医師長が思わず声を上げた。
「七日で新しい薬を開発するなど、無謀だ!」
「無謀です。だから、皆さんの力が必要です」
昼過ぎ、レイヴンは王宮の厨房を訪れた。
料理長は王女が口にできるものを毎日工夫していたが、病状が悪くなるにつれ、食事を運ぶ皿はほとんど手つかずで戻ってきたという。
「せめて好きなものを」
と料理長は言い、王女が幼い頃に好んだ林檎の煮物を見せた。
レイヴンは栄養を補う方法をマリシアと相談し、無理に食べさせない方針を確認した。
治療は薬瓶の中だけで完結しない。
眠る場所、飲む水、口にする食事、傍らにいる人。
そのすべてが患者の一日を形作る。
彼は厨房の水も検査し、古い井戸からの配管が現在は封鎖されていることを確かめた。
配管図には、七年前の改修印が残っていた。
夜、国王は娘の幼い頃の話をした。
「あの子は庭師の後ろを追いかけ、花の名前を全部覚えた。病気になってからも、毎年同じ花が咲くか尋ねる」
レイヴンは頷いた。
王女を王女としてではなく、花が好きな一人の人として知ることが、治療を諦めない理由になる。
「七日以内に薬を完成させます。でも、完成してからも時間が必要かもしれません」
国王は窓を見た。
「待つことなら、七年もしてきた。今度は、希望を持って待ちたい」
レイヴンは医師長に経過記録を、マリシアに患者の観察を頼み、王宮の水質検査記録を求めた。
医師長は一瞬ためらい、やがて厚い記録簿を差し出した。
国王は静かに言った。
「必要なものは何でも用意する」
「では、まず王女殿下の治療記録を誰にも隠さないでください。失敗も含めて、全員で共有します」
それは王宮の慣習に反する要求だった。
医師は失敗を恐れ、錬金術師は配合を隠す。
レイヴンは、その沈黙がどれほど多くの命を奪ってきたか知っていた。
夜、仮設の研究室に運び込まれた記録簿をめくると、七年前の水質欄だけが不自然に空白だった。
前後の日付には几帳面な数値が並ぶのに、そこだけ紙が貼り替えられている。
「誰かが消した?」
マリシアが尋ねた。
「まだ決めつけない。ただ、調べる理由にはなる」
レイヴンは欠けた日付を別紙に写した。
そのとき、扉の向こうで靴音が止まった。
誰かが研究室の灯を確かめ、何も言わずに去っていく。
マリシアが息を潜める。
「監視されていますね」
「王女の命がかかっている。見られて困る研究はしない」
そう答えながら、レイヴンは記録簿を閉じた。
七日という期限は、薬を作るためだけのものではなかった。
七年間隠されてきた何かを、王女の命が尽きる前に見つけなければならない。
翌朝、彼は王女の病室へ戻った。
王女は眠っていたが、枕元には小さな紙が置かれている。
震える字で、庭の花の名前が三つ書かれていた。
レイヴンはその紙を折らずに机へ戻した。
「必ず、あの花を見に行きましょう」
返事はなかった。
それでも彼は、約束を口にした。




