第二十話 国王は追放した錬金術師に頭を下げた
謁見の間は、普段より静かだった。
玉座の前に立つレイヴンの背後には、マリシアと医師長オルフェンが控えている。
貴族たちの視線は、粗末な外套を着た錬金術師に集まっていた。
「レイヴン・ノーチス」
国王グランツが名を呼んだ。
「余は、そなたを王宮から追放した決裁に署名した」
レイヴンは顔を上げた。
国王の手には、あの日の決裁書が握られていた。
「書類には、製造数が少なく能力不足とあった。だが、昨日の実験で余は見た。そなたが守っていたのは数字ではなく、薬を飲む者の命だった」
玉座の脇に立つシュミットは、青ざめていた。
国王は立ち上がった。
王宮からの帰り道、レイヴンは貧民街の井戸に立ち寄った。
夕方の水汲みで列ができている。
桶を抱えた母親たちは、王女の治療の話よりも明日の飲み水の心配をしていた。
「この井戸も調べてもらえるんですか」
一人の女性が尋ねる。
「国王が約束してくれました。私も調査に加わります」
女性は何度も礼を言った。
レイヴンは井戸の縁に手を置いた。
薬を作るだけでは、ここに住む人々の苦しみはなくならない。
その夜、マリシアは王女の診察に必要な器具を揃えた。
レイヴンは最後に、リーナの治療記録を鞄へ入れた。
最初の患者から学んだことが、次の患者を救う鍵になるかもしれなかった。
「娘の命を救ってほしい」
レイヴンはすぐに答えなかった。
王女の病はまだ診察していない。
救えると断言することは、患者に対して不誠実だ。
「できる限りのことをします。ただし、治療法の選択には医師長とマリシアの判断も必要です。私一人で奇跡を約束することはできません」
「それでよい」
国王は一段、玉座から降りた。
「報酬は望むだけ与えよう」
「では、王都の井戸を調べさせてください。貧民街では、汚れた水が病気を広げています。診療所の整備にも支援が必要です」
貴族たちがざわめいた。
王女の治療と、貧民街の井戸。
釣り合わない要求に聞こえたのだろう。
謁見の後、レイヴンは王宮の廊下で立ち止まった。
窓の外には、かつて自分が通った裏門が見える。
あの日、鞄一つで出ていったときは、二度とここへ戻ることはないと思っていた。
「恨んでいないのですか」
医師長オルフェンが尋ねた。
「恨みはあります。
でも、今は王女殿下の診察が先です」
「あなたのような者を失ったのは、王宮の過ちでした」
レイヴンは首を振った。
「過ちだと分かったなら、次に同じことをしない仕組みを作ってください」
オルフェンは深く頷いた。
扉の前に着くと、マリシアがレイヴンの袖を引いた。
「まず、患者に名乗りましょう。王女でも同じです」
レイヴンは微笑んだ。
豪華な宮殿でも、貧民街の診療所でも、治療の始まりは変わらない。
相手の話を聞くこと。
それが最初の一歩だった。
「なぜ、それを望む」
「私が最初に救ったのは、貧民街の少女でした。あの子が病気になった原因を放置したまま、王女殿下だけを治すわけにはいきません」
国王は長い間、レイヴンを見つめた。
そして、玉座の最後の一段を降りた。
「約束しよう」
国王が頭を下げたという噂は、夕刻には王都の市場まで広まった。
ある者は信じず、ある者は面白がり、またある者は涙を流した。
だがレイヴンの工房では、いつも通り薬草が選別され、瓶が洗われていた。
「すごいことになったね」
とリーナが言う。
「そうだね」
王女の寝台のそばで、医師は脈を数える手を止めなかった。
身分の高い患者だからこそ、判断を急ぐ圧力は強い。
レイヴンは記録の空欄を埋めてから、次の処置を決めた。
「頭を下げれば、失われた時間は戻るのですか」
レイヴンの問いに、国王は答えられなかった。
彼は王宮の治療記録を公開し、追放査定を独立して再調査させるよう求めた。
「私を復職させるためではありません。次の誰かが、同じ理由で患者を見捨てることのないように」
国王は謝罪の言葉を重ねず、命令書に署名した。
レイヴンが見届けたのは、王冠を脱いだ姿ではなく、責任を引き受ける筆先だった。
「でも、明日の薬も作るんでしょう?」
「もちろん」
レイヴンは笑った。
国王が頭を下げても、患者の熱はそれだけでは下がらない。
必要なのは、明日も変わらず働く手だった。
王は頭を下げた。
謁見の間で誰かが息を呑んだ。
レイヴンは膝をつかなかった。
ただ、患者を救うときと同じように、静かに頷いた。
その日の夕刻、レイヴンは王女の診察室へ向かった。
扉の向こうから、かすかな咳が聞こえる。
物語はまだ終わらない。
救うべき命が、すぐそこにあった。
王女の扉の前で、レイヴンは一度だけ深呼吸した。
ここには王も宰相もいない。
いるのは、長い病に苦しむ一人の少女だけだ。
彼は軽く扉を叩き、返事を待った。
国王は謁見の間を出た後、医師長に一つの命令を下した。
「王都の井戸を、すべて調べよ」
オルフェンは驚いた。
「殿下の治療が終わってからではなく?」
「今すぐだ。娘の命を救うことと、民の命を守ることを分けて考えていたのが、余の過ちだった」
王は窓の外に目を向けた。
城壁の向こうに貧民街の屋根が連なる。
そこにも親がいて、子がいる。
王女の病を恐れる自分と同じように、毎夜眠れない人々がいるのだろう。
国王は新しい勅令の草案を求めた。
レイヴンの言葉は、玉座を降りたその瞬間だけの約束で終わらせてはならなかった。
レイヴンが王女の診察室へ向かう途中、侍女が小さな花瓶を抱えて通り過ぎた。
白い花が一輪、かすかに揺れている。
王女は庭に出られないのだと聞いていた。
治療が成功したら、何をしたいか本人に尋ねよう。
歩きたいのか、外の空気を吸いたいのか、それとも別の願いがあるのか。
薬を作る前に、まずその人の声を聞くべきだった。
謁見が終わると、国王はレイヴンへ近づき、周囲に聞こえない声で言った。
「娘は七年間、庭へ出ていない」
レイヴンは王の顔を見た。
玉座にいたときには見えなかった疲れが、その目元に刻まれている。
「まず診察します。できることと、できないことを正直にお伝えします」
国王は頷いた。
「それでいい。希望だけを売る者には、もう疲れた」
レイヴンは静かに頭を下げた。
王女の病を治せるかどうか、まだ分からない。
だが少なくとも、誰かの権威のために治療を曲げるつもりはなかった。
廊下の先には、王女の部屋へ続く階段があった。
その夜、国王は玉座に戻らず、王女の部屋の前にしばらく立っていた。
扉の向こうで、侍女が小さな声で何かを話している。
娘の笑い声が一瞬だけ聞こえた。
王は目を閉じた。
国を治めることと、たった一人の命を守ること。
その両方に向き合うために、明日から自分も変わらなければならない。
彼は静かに踵を返した。
王女の部屋へ向かう廊下は長かった。
レイヴンは歩調を緩め、診察で聞くべきことを心の中で確かめた。
目の前の患者を知ることから、すべてが始まる。
扉の向こうで、王女が苦しげに咳をした。
国王の謝罪で救える命ではない。
レイヴンは診療記録を開き、医師長に言った。
「まず、今夜の容体から聞かせてください」




