第十八話 追放した男に王宮が救援を求めた
王宮からの使者が薬屋に現れたのは、朝の診療が始まる直前だった。
白い馬に乗った騎士と、王家の紋章をつけた文官。
貧民街の人々が道の両側へ避ける。
王宮からの使者が薬房に入ると、待合の患者たちは一斉に口を閉じた。
追放を命じた側が、今度は助けを求めている。
使者は王女の病状を告げながら、誰の前で頭を下げるべきか迷っていた。
レイヴンは使者の礼儀よりも、治療記録が揃っているかを先に尋ねた。
王宮の廊下に響く靴音が遠ざかると、机には署名のない書類だけが残った。
命令を出した者の名前が消えても、その結果を引き受ける人間は消えない。
監査官は余白に日付を記した。
「レイヴン・ノーチス殿。王女殿下の治療について、王宮への出頭を命じる」
文官は巻物を読み上げた。
レイヴンは最後まで聞いてから、診療所の中を示した。
「今は患者がいます。話ならここで伺います」
「王命だぞ」
「患者の命も、待ってはくれません」
王宮の使者は封蝋のついた命令書を置いた。
「直ちに戻れ」
レイヴンは紙を裏返した。
「患者の容体が書かれていません」
使者が言葉に詰まると、マリシアが診療所の患者一覧を持ってきた。
誰を置いていくかを決めずに出発することはできない。
王宮の威光より、目の前の患者の名前が重かった。
王宮からの使者が差し出した封書には、かつてレイヴンの追放を承認した印が押されていた。
使者は頭を下げたが、レイヴンはすぐに封を切らなかった。
「王女の状態と、これまでの治療記録を先に」
謝罪の言葉より患者の情報が急がれる。
その順番を、王宮は初めて学んだ。
文官が顔を赤くしたとき、マリシアが現れた。
彼女は王女の病状をすでに医師長から聞いていた。
薬屋の外では、使者を見送った住民たちが心配そうに集まっていた。
「王宮に連れていかれるのか」
「また追い出されるんじゃないか」
レイヴンは皆に説明した。
王女の治療依頼であり、薬屋を閉めるわけではないこと。
自分が不在の間も、マリシアと工房の仲間が診療を続けること。
「約束してくれよ」
と老人が言った。
「あんたが戻ってくるって」
レイヴンは頷いた。
「戻ります。ここが私の工房ですから」
その言葉に、住民たちの表情が少し和らいだ。
王宮の立派な部屋より、この狭い薬屋のほうが、今のレイヴンには帰る場所だった。
「診察には協力します。ただし、必要な情報をすべて開示してください。病状も、これまでの治療記録も」
使者が差し出した契約書には、奇妙な一文があった。
治療の条件として、エリクサーの製法と工房設備を王宮へ無償譲渡すること。
レイヴンはその箇所を指で押さえた。
「この条項は誰が加えたんですか」
「錬金術師団長シュミット殿の指示だ」
「では、お断りします」
文官が息を呑む。
「王女殿下を見捨てるのか!」
使者が戻った後、薬屋では小さな会議が開かれた。
マリシアは王女の病状を知るための質問を書き、エルナは高純度品に必要な薬草を数えた。
ゴルバは王宮へ持ち込める小型装置の図面を描く。
「王宮へ行けば、また何か言われるかもしれません」
リーナの母親が心配そうに言った。
「そうでしょうね」
とレイヴンは答えた。
「でも、病気の人がいるのなら行きます」
彼は王宮で受けた仕打ちを忘れたわけではなかった。
ノートを奪われ、仲間に背を向けられ、何もできないと笑われた日のことは今も鮮明だ。
だからこそ、自分が誰かの命を交渉の道具にしたくなかった。
マリシアは条件書を読み直した。
「患者の意思を尊重する、という一文も入れましょう」
レイヴンは頷いた。
王女であっても、治療を受けるのは一人の人間なのだから。
「違います。王女殿下の治療は引き受けます。製法を奪う条件を拒否しているんです」
レイヴンは別の紙を取り出した。
治療への協力、患者情報の開示、工房の独立性、治療後の経過観察。
それだけを記した短い条件書だった。
「これを国王陛下へ直接届けてください」
使者たちが去った後、リーナが小さな声で尋ねた。
レイヴンは王宮の使者に渡した条件書の控えを、工房の帳面に挟んだ。
そこには難しい法律の言葉はない。
患者を診察する権利、治療に必要な記録、薬の安全性を守るための独立した判断。
どれも、貧民街の患者に対して当たり前に守ってきたことだった。
王宮の権威を前にしても、その当たり前を手放さない。
そう決めると、レイヴンの胸に残っていた追放の日の怒りが、少しだけ別の形に変わった。
「王女さまも、あのときの私みたいに苦しいの?」
「たぶん、もっと長い間ね」
「じゃあ、助けてあげて」
レイヴンは頷いた。
追放された恨みと、目の前の患者を救う責任は、混ぜてはいけないものだった。
王宮からの返事を待つ間も、薬屋の仕事は止まらなかった。
患者の名前を呼び、熱を測り、薬を渡す。
レイヴンはその繰り返しの中で、自分が何のために錬金術を学んだのかを確かめていた。
王宮へ戻るとしても、戻るのは技術を差し出すためではない。
一人の患者に会うためだ。
王宮の使者が去った後、レイヴンはリーナに頼まれ、薬屋の奥で一緒に夕食を取った。
小さなパンと野菜の煮込み。
王宮の食卓に比べれば質素だが、湯気の向こうに笑い声があった。
「王女さまって、どんな人?」
とリーナが聞く。
「まだ会ったことがないんだ」
「じゃあ、怖い人かもしれないね」
レイヴンは笑った。
「病気で苦しんでいる人に、怖いも優しいも関係ないよ」
リーナはしばらく考え、パンを半分に割った。
「これ、王女さまにも持っていって」
レイヴンは受け取り、胸が温かくなった。
王宮に持ち込むにはあまりに小さな贈り物。
それでも、薬を作る理由がそこにあるような気がした。
翌朝、彼はそのパンを食べずに取っておいたことを少し後悔した。
食べ物は新鮮なうちが一番だ。
代わりに、リーナの気持ちを言葉で伝えようと決めた。
王宮の文官は帰りの馬車で、レイヴンの条件書を読み返した。
金貨の額も爵位の要求もない。
患者の記録と治療の自由だけが書かれている。
彼は自分が最初に
「王命だぞ」
と怒鳴ったことを思い出し、顔をしかめた。
薬屋の前に並んでいた人々は、誰も王家の紋章を恐れていなかった。
ただ薬が届くことを願っていた。
レイヴンは王宮から届いた最初の契約書を、火にくべなかった。
机の引き出しにしまい、いつでも見返せるようにした。
治療の名目で研究成果を奪おうとする文面を、忘れたくなかったのだ。
マリシアはその横に、自分たちで書いた条件書の控えを置いた。
「二つを並べると、何を守りたいのか分かりますね」
レイヴンは頷いた。
片方には所有権の話ばかりがあり、もう片方には患者のことが書かれている。
どちらを選ぶかは明らかだった。
窓の外から、リーナの笑い声が聞こえた。
王宮へ行く理由は、その笑い声を守る理由と同じだった。
リーナは夜になっても眠れず、母親に王女の話をした。
「私と同じ病気だったら、治るかな」
母親は娘の髪を撫でた。
「先生がきっと、できることをしてくれるよ」
リーナは頷いた。
自分が助かった日のことを思い出すと、胸の奥が温かくなる。
あの薬を、王女にも届けてほしい。
彼女はそう願いながら、ようやく眠りについた。
レイヴンは薬屋の戸締まりをしながら、王宮の紋章を思い出した。
かつては恐ろしい印だった。
今はただ、治療を必要とする患者のいる場所を示しているだけだ。
そして今度は、誰にもその治療を邪魔させないと決めた。




