第十七話 王女の病を治せる薬が存在した
王宮の北塔では、春になっても窓が開けられなかった。
王女エレオノーラの体は冷たい風に耐えられず、寝台から起き上がることさえ難しい。
「今日は庭の花が咲いたそうです」
侍女が話しかけると、王女は薄く笑った。
「そう。去年も、同じ話を聞いたわね」
その朝、侍女が差し出した杯を、王女は指で支えられなかった。
銀の縁が床に当たり、乾いた音を立てる。
王女は
「ごめんなさい」
と謝ったが、侍女は割れた杯より、その唇が青くなっていることに震えた。
医師長は心拍の乱れを確認し、次の発作で呼吸が止まる危険を告げた。
「王女殿下は、あと何日待てますか」
国王の問いに、医師長は答えられなかった。
治療の成功率を誇る者はいた。
だが王女が明日の朝も目を覚ますと約束できる者は、一人もいなかった。
七年前から続く病。
王宮医師団は何度も治療を試みたが、熱は下がらず、筋力は衰えるばかりだった。
最近は心臓の周囲に黒い魔力の影が現れ始めている。
その日、医師長オルフェンのもとへ、貧民街の診療記録が届いた。
送り主は古い知人のマリシア。
記録には、魔力侵食症の少女が回復した経過が詳しく記されていた。
国王が使者を送る決断をした夜、王女は侍女に一つだけ頼んだ。
「もし新しい先生が来たら、私の話も聞いてほしいと伝えて」
侍女は驚いた。
これまで王女の治療方針は、医師や神官たちだけで決められてきた。
本人は痛みを訴えることすら遠慮していたのだ。
「もちろんです、殿下」
王女は窓の外に目を向けた。
庭園の木々は春の色に染まっている。
来年も見られるかどうか分からない景色だった。
「私は、また歩きたいの」
その声は小さかったが、侍女にははっきり聞こえた。
「同じ病……いや、似ているが重症度が違う」
オルフェンは紙をめくった。
使用された薬の成分表は見慣れないものだったが、魔力侵食の減少曲線には覚えがある。
王女の病を調べたとき、理論上だけ存在すると考えられていた反応だ。
「これが本当なら」
彼は椅子を蹴って立ち上がった。
王宮の会議室で、医師長は国王に報告した。
「殿下を救える可能性があります。保証はできません。しかし、これまでの治療とは根本的に異なります」
オルフェンは王女の病歴をもう一度読み返した。
七年前、原因不明の熱が始まった。
五年前には足に力が入らなくなり、二年前から心臓の周囲に異常な魔力反応が現れた。
医師団は薬を変え、祈祷を増やし、珍しい鉱石を寝台の下に置いた。
だが改善はなかった。
「私たちは何を見落としていたのだろう」
医師長は窓の外を見た。
王宮の庭園は美しく整えられている。
その下を通る古い水路が、王都の貧民街へ続いていることを彼は知らなかった。
王女の部屋では、侍女が新しい花を飾っていた。
「今度の薬は、効くでしょうか」
王女は問いかけたが、答えは求めなかった。
何度も希望を持ち、何度も失望してきたからだ。
それでも侍女が
「新しい錬金術師が見つかったそうです」
と告げると、王女はほんの少しだけ目を開いた。
国王グランツは、机に置かれた記録の署名を見た。
レイヴン・ノーチス。
王女の病歴には、数字に表れない時間が積み重なっていた。
庭を歩けなくなった日、食事を一人で取れなくなった日、友人たちが結婚して宮殿を去った日。
医師長はその記録を読むたび、治療が失敗するたびに王女が何を失ったのかを思い知らされた。
薬の効果を測ることは大切だ。
だが患者が望む生活を取り戻せるかどうかも、同じくらい大切だった。
オルフェンはその夜、初めて王女本人に
「何ができるようになりたいですか」
と尋ねることを決めた。
かつて自分が追放決裁書に印を押した男の名だった。
「その者は今、どこにいる」
「王都の貧民街で、薬屋を営んでおります」
国王は長い沈黙の後、使者を呼んだ。
王女の命を救うために、王の誇りを捨てなければならない日が近づいていた。
王女の診療記録には、毎年同じ
「原因不明」
の四文字が並んでいた。
マリシアは前任医師を責める前に、検査に使えなかった器具の一覧を確かめた。
失敗の責任を一人に押しつけても、王女の残り時間は増えない。
王女の診療簿に残る七年前の発症日を見て、レイヴンの手が止まった。
原因が不明なまま強い薬を使えば、病を隠してしまうかもしれない。
「治療を始める前に、飲み水と当時の記録を調べさせてください」
医師長は一瞬ためらい、王宮の地下書庫の鍵を取りに行った。
侍女は王女の枕元に花を一輪置いた。
王女は花の名前を言いかけ、咳に遮られる。
「治療が失敗したら、この花の名前も忘れるのかしら」
侍女は答えられなかった。
王女は震える指で花弁をなぞり、
「それでも、試してみたい」
と告げた。
医師長は診療記録を胸に抱き、王女の部屋へ向かった。
救えるという確証はない。
それでも、初めて手の届く場所に希望が現れた。
王女に嘘をつかず、その希望を伝えよう。
そう決めて、彼は扉を叩いた。
王女の部屋には、七年間で集められた薬瓶が小箱に収められていた。
治療に使われたもの、効かなかったもの、危険があって途中で中止されたもの。
侍女はそれを片づけるたび、王女の落胆した顔を思い出す。
ある夜、王女は箱の蓋を閉めて言った。
「もう、新しい薬の名前を覚えられないわ」
侍女は何も答えられなかった。
だからこそ医師長が新しい記録を持ってきたとき、彼女は真っ先に尋ねた。
「殿下に、また期待させてもいいのでしょうか」
オルフェンは正直に答えた。
「必ず治るとは言えません。しかし、これまでとは違う根拠があります」
侍女はその言葉を王女に伝えた。
王女は長い間黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「会ってみたい。その人に、私の病気のことを話したい」
王女は侍女に頼み、庭園の花を一輪だけ枕元へ持ってきてもらった。
自分で見に行けないなら、せめて香りを感じたい。
そんな願いさえ遠慮がちに口にする娘を見て、国王は胸を痛めた。
王としてできることは多いはずなのに、父として何もできていない。
彼は机に置かれた追放決裁書をもう一度開き、そこに記された名前を長く見つめた。
国王は医師長の報告を聞いた後、一人で王女の部屋を訪れた。
娘は窓の外を見つめていた。
「今日はどうだ」
と尋ねると、
「昨日と同じです」
と答えた。
王は椅子に座り、しばらく言葉を探した。
王としての命令なら、いくらでも出せる。
だが父として娘に何を言えばよいか、分からなかった。
「新しい錬金術師に会ってもらうことになった」
王女は静かに頷いた。
「お父さま、その人を無理やり連れてこないでくださいね」
国王は驚いた。
「なぜだ」
「私のために、誰かを傷つけてほしくないから」
その言葉は、王の胸に深く刺さった。
彼は娘の手を握り、初めて
「すまなかった」
と言った。
王女の部屋では、侍女が新しい寝具を整えていた。
王女はいつものように疲れた目で天井を見つめる。
それでも
「新しい先生が来るそうです」
と聞くと、指先を動かした。
「その人、怒っていないかしら」
侍女は意味が分からず首を傾げた。
「王宮に追い出された人なのでしょう。私のために呼び戻されるなんて」
王女は目を閉じた。
「どうか、優しい人でありますように」
王女は寝台の上で指先を伸ばし、窓から入る光に触れようとした。
届かないと知っていても、手を伸ばすことをやめたくなかった。
新しい治療への願いは、その小さな動きに表れていた。
侍女は王女の指先にそっと自分の手を重ねた。
明日の朝も、同じ場所で待つつもりだった。
庭の花が咲いたことを、もう一度伝えようと思った。




