第百二十二話 国王はリーナに宰相の地位を差し出した
アルディア国王は、リーナを王宮の謁見室へ呼んだ。
机の上には宰相の印章と、国の財政を自由に動かせる任命状が置かれていた。
宰相の印章を差し出されても、リーナの目は王座ではなく窓の外へ向いた。
広場では井戸の順番を決める村人たちが話し合っている。
彼女が一つの椅子に座れば、次の救援先へ向かう足が止まる。
「私の代わりに決められる人を増やしてください」
王は印章を置き、初めてその意味を考えた。
宰相の印章を差し出されたリーナは、椅子に座らなかった。
「私がいなくなったあとも動く仕組みを先に作りたい」
国王は印章を戻し、各地の代表が参加する会議を開くよう命じた。
「あなたのおかげで国は飢えから立ち上がった。これからは国政を担ってほしい」
大臣たちが拍手した。
だがリーナは印章を取らなかった。
「私はこの国の法律も、村ごとの習慣も、まだ十分に知りません」
「学べばよい。あなた以上に民のために働いた者はいない」
「だからこそ、私一人に決定を集めるべきではありません」
宰相の印章を差し出されたリーナは、窓の外の農地を見た。
王宮に入れば命令は早く届く。
だが、村の井戸の水質を自分で確かめる時間は減る。
「役職ではなく、現場の人が意見を言える仕組みをください」
国王アシュランは印章を下げ、村の代表が出席する会議の設置を命じた。
王の表情が曇る。
拒絶されたと感じたのだろう。
リーナは静かに続けた。
「救援隊が帰ったあと、誰が予算を監視するのですか。誰が水の配分を決めるのですか。私が倒れたら、また国が止まる仕組みでは困ります」
そのとき、廊下から騒ぎが聞こえた。
西部の村長たちが、水路の優先順位をめぐって抗議に来たのだ。
王宮は彼らを追い返そうとした。
「通してください」
とリーナは言った。
村長の一人は、地図に赤い線を引いた。
新しい都市の水路が先に完成すれば、古い村の井戸が枯れる可能性がある。
宮廷技師は『計算上は問題ない』と主張したが、村長は昨年の地下水位の記録を持っていた。
リーナは両者の資料を並べた。
技師の計算は雨季の流量を前提にしていた。
雨が少ない年には不足する。
「王宮に反対できる人がいなければ、こういう誤りは見つかりません」
国王は村長たちに椅子を勧めた。
その日の会議は予定を大きく超えたが、最後には水利委員会に農民代表を加えることが決まった。
夕方、国王はもう一度任命状を差し出した。
「それでも宰相にならぬか」
「なりません。
ただし、行政を学ぶ人を育てる学校なら、お手伝いできます」
国王の提案には、もう一つ理由があった。
長年の飢餓で官僚制度が弱り、若い実務者が育っていなかったのだ。
王は英雄の力を借りて、一度に立て直したかった。
リーナにもその焦りは理解できた。
だが、万能の人間などいないと、彼女はレイヴンから教わっていた。
翌週、王宮の書記官たちを対象に公開講習が始まった。
講師はリーナだけではない。
倉庫管理のロアン、農業協力局のフィオナ、村の会計係、学校の教師。
書記官は最初、農民から教わることに不満を示した。
ところが、村の会計係が備蓄の計算間違いを見つけると、教室は静まり返った。
「王宮の数字が間違うこともあります」
と会計係は言った。
「だから、私たちにも見せてください」
新しい制度では、灌漑工事の入札条件を公開した。
最安値だけで選ばず、修理できる職人が地域にいるか、工事後の水質を誰が測るかも評価する。
商人たちは面倒だと不満を漏らした。
しかし安い材料を使って壊れた橋の修繕費を示されると、反論は小さくなった。
宰相の席を断ったリーナに、国王は理由を尋ねた。
「私がここに残れば安心かもしれません。でも、この国を動かす人はこの国で育たなければ」
彼女は代わりに、村の代表が予算を確認できる会議の設置を求めた。
宰相の印章を前に、リーナはミリナの顔を思い出した。
かつてパン一切れを必要とした少女は、今は自分の言葉で村の会議に参加している。
「私一人の命令で動く国に戻したくありません」
国王は印章を引き、農民の議決権を保証する文書へ署名した。
リーナが王宮を離れるとき、若い官吏が追いかけてきた。
「私は昨日まで、王命に従うことが正しいと思っていました。村人に反対されたら、どうすればいいのでしょう」
「理由を聞いてください。それでも意見が違うなら、数字と現場を一緒に確かめてください」
官吏は深く頭を下げた。
数日後、彼は水路計画の誤りを自ら報告した。
上司は叱責しかけたが、国王は報告を評価した。
「間違いを隠す者より、間違いを見つける者を必要とする」
王妃はリーナを庭園に招いた。
『宰相を断るとは、王を嫌っているのか』と尋ねる声には、責める響きはなかった。
リーナは答えた。
「王様が好きだから、王様がいなくなっても続く国にしたいのです」
王妃は微笑み、次の世代の王族も行政学校で学ばせると約束した。
最初の卒業生には、かつて配給所で働いていた女性がいた。
彼女は村の会計係になり、予算の使い道を毎月説明することになった。
演説の最後、女性は言った。
「私には英雄の力はありません。でも、来月の麦の数は間違えないようにします」
会場には温かな拍手が起こった。
リーナは、フィオナをはじめとする現地の実務者を推薦した。
予算を公開し、役職を引き継げるようにし、任期と監査を定める。
人を信じるために、誰か一人を信じ切らなくてもよい制度を作るのだ。
行政学校の初回試験は、王宮の書記官にも村の会計係にも同じ問題を出した。
『干ばつの年、学校給食と輸出契約が競合したらどうするか』
書記官は契約の条文を並べ、会計係は倉庫の残量を書き込んだ。
どちらも一部しか見ていなかった。
リーナは二人を組ませ、数字と法律の両方を使って答えを出させた。
王はその答案を読んで、かつて宰相に判断を任せきりだった時代を思い出した。
「私も学ばねばならぬな」
翌週から、国王自身が月に一度、地方代表の公開質疑を受けることになった。
最初の会議では質問が一つも出なかった。
二度目には三つ、三度目には十を超えた。
リーナは王宮を去る日、印章の置かれた机を見た。
あれを持てば、多くのことを早く決められたかもしれない。
だが決める速さより、決定を直せることが大切なときもある。
彼女は戸を閉め、村の会議へ向かった。
国王はしばらく沈黙したあと、任命状を折り畳んだ。
地方の会計係が王宮の監査に参加する日、貴族の一人が露骨に嫌な顔をした。
「農民に国庫を見せるのか」
国王は答えた。
「国庫の麦を育てたのは誰だ」
貴族は黙った。
会計係は支出表の中に、同じ橋の修繕費が二度記載されていることを見つけた。
調べると、書記官が古い請求書を誤って再登録していた。
大きな不正ではない。
だが、早く見つけたおかげで余分な支払いを防げた。
リーナは監査を終えた人々に言った。
「誰かを疑うためだけに帳面を見るのではありません。間違いを直せるようにするためです」
その言葉は、翌月から各村の会計室にも掲げられた。
「英雄を宰相にするより、英雄を必要としない国を作る。そういうことか」
「はい」
翌日の新聞には『リーナ、宰相就任を辞退』と大きく載った。
しかし小さな欄に書かれた『村の水利委員会、初めて農民が議決権を得る』という記事の方を、リーナは何度も読み返した。
後日、国王は地方の役人へ一通の文書を送った。
『反対意見を述べた者を処罰してはならない。
ただし、反対の理由も記録すること』
命令を受け取った村長は最初、戸惑った。
だが次の会議で、農民が水路の亀裂を報告し、工事のやり直しが決まった。
小さな発見だった。
リーナはその知らせを聞いて笑った。
宰相の印章を受け取らなくても、国を変えることはできる。
むしろ、誰もが声を出せるようになったことが、何よりの成果だった。




