第百十五話 皇帝は食糧の輸出を禁止した
帝国の布告は短かった。
『アルディアへの穀物、種子、農業資材の輸出を禁ずる』
違反した商人には財産没収。
国境の検問所では、食糧を積んだ荷車が引き返していた。
帝国の禁輸令を受け取った港長は、貨物を止める命令書を見つめた。
積み荷は穀物だけでなく、病院へ送る種子も含んでいた。
リーナは禁輸の抜け道を探す前に、港に残された人々の食糧を数え、足りない分を別の航路で届けると決めた。
食糧の輸送車を見送る少年が
「どうして隣の国に渡すの」
と尋ねた。
母親は答えられなかった。
リーナは少年の前にしゃがみ、
「向こうの子も、今夜お腹をすかせているから」
と言った。
説明は短かったが、少年は自分のパンを半分に割った。
帝国皇帝は、アルディアが再び食糧を買い求め、政治的な従属を受け入れると考えていた。
王宮には条件が届いた。
港湾権と鉱山の採掘権を帝国に譲れば、禁輸を解除するという。
国王は青ざめた。
「民を飢えさせるわけにはいかない。譲るしか……」
「今すぐ必要な食糧と、国の未来を切り売りする話は分けて考えましょう」
リーナは地図を開いた。
収穫までの日数、備蓄の残量、他国からの航路。
帝国からの輸入は大きかったが、唯一の道ではない。
港の船員は、輸入した豆を袋ごとに量り直していた。
長旅で湿ったものは乾燥させ、傷んだものは食用に回さない。
『一袋でも惜しいのに』と若い船員が嘆く。
リーナは答えた。
『だからこそ、病気になるものを配れません』
不足を補うため、別の港へ追加の救援要請を送った。
問題は輸送だった。
海路は長く、港の荷揚げ設備は壊れている。
リーナは国際医療支援機構の物流担当者に協力を求めた。
ただし、医療物資の輸送を止めて食糧に回すことはしない。
緊急用の船を追加で借り、運賃と荷役費を公開した。
国境の村では、帝国から働きに来ていた労働者たちが取り残されていた。
故郷へ戻れば禁輸の責任を問われるかもしれない。
村人の一部は
「帝国人に麦を食わせるな」
と怒った。
帝国の禁輸を聞いた農家の中には、苗を抜いて売れる作物へ変えようとする者もいた。
ナディアは農家の集会で収穫までの見通しを説明した。
短期の現金が必要な家庭には共同基金から小口の融資を出す。
高い利息で縛られないよう、条件は壁に掲示された。
農業は収穫の日だけで続くものではない。
リーナは配給所の前に立った。
「ここで誰かを国籍で飢えさせたら、私たちは何と戦っているのか分からなくなります」
最初に器を差し出したのはミリナだった。
帝国出身の少年は震える手で受け取った。
帝国の役人は、その光景を国境から見ていた。
彼は報告書に『アルディアは敵国民にも食糧を与えている』と記した。
上官はその一文を削除させようとしたが、写しは別の経路で広まった。
国境で食事を受け取った帝国の少年は、翌朝、配給所の掃除を手伝った。
『ただでもらうのが嫌だから』と言う。
リーナは首を振った。
『食事は働いた報酬じゃない。
でも手伝いたいなら、ありがとう』
少年は少し笑った。
支援を受ける人の尊厳を守ることと、仕事を任せることは両立できる。
一方、国内の商人エリックは禁輸を利用して再び値上げを試みた。
だが共同保管庫の在庫が公開され、農業組合が直売を続けていたため、前ほどの利益は出なかった。
彼は今度は港の荷役人を買収し、輸入船の荷下ろしを遅らせた。
リーナは港へ赴き、荷役人を責める前に賃金台帳を調べた。
賃金が三か月も支払われていなかった。
「買収されたから悪い」
で済ませれば、同じことが繰り返される。
未払い賃金を精算し、荷役組合と公正な契約を結んだ。
帝国の禁輸を聞いた村長は、今ある倉庫の穀物をすぐに配るべきだと主張した。
リーナは賛成しつつ、次の種麦と医療施設の備蓄だけは守った。
帝国の政策が長引いても、次の春に畑を失わないためだった。
輸出禁止の報が届いた夜、倉庫の配給係は残りの穀物を数え直した。
あと十二日。
リーナは大きな地図を広げ、帝国を通らない輸送路に印を付けた。
しかし山道には橋がなく、船便は嵐の季節だった。
「誰も飢えさせない」
と約束することはできない。
彼女は村長たちを集め、在庫と不足日数を隠さず示した。
老人が言った。
「それなら、最初に子供の分を決めよう」
外交交渉の前に、村の人々自身が配分の優先順位を決めた。
足元に立つリーナへ、
「ここで一番困っているのは誰ですか」
と声が届いた。
その問いに、すぐ答えられる者はいなかった。
リーナは言葉だけで済ませず、その場の担当者と次の一歩を決めた。
答えが出るまで、彼らは席を立たなかった。
翌朝、最初の救援船が入港した。
積み荷は麦だけではない。
豆、乾燥魚、種子、農具。
船長は言った。
「帝国が閉じた道の代わりに、海にはまだ道があります」
その日の午後、帝国の禁輸に備える配給所で、リーナは冬を越せるか不安な母親と向き合った。
冬を越せるか不安な母親は自分の取り分を子供へ渡そうとした。
その言葉に、周囲の者は答えを急いだ。
しかしリーナは、相手が言い終わるまで遮らなかった。
ダリオは年齢別の必要量を説明し、母親にも食事が届くよう配分を組み直した。
誰かが
「それで十分ですか」
と尋ねた。
十分だと言える人はいなかった。
それでも、いま確かめられる事実を一つずつ積み上げるしかなかった。
会議が終わるころ、反対の声が上がった。
「そんな手間をかけていたら、間に合いません」
リーナは窓の外へ目を向けた。
帝国の禁輸に備える配給所には、結論を待つ人がいる。
急ぐ理由は確かにある。
だが、焦りを理由に危険を隠せば、次に失うものはもっと大きい。
「今日できることと、明日まで待つべきことを分けましょう」
反対した者も、しばらくして作業の順序を尋ねた。
夕刻、冬を越せるか不安な母親がもう一度戻ってきた。
昼間には言えなかったことがあるという。
リーナは手を止めた。
相手が恐れていたのは、失敗そのものではない。
失敗を告げたあと、誰にも信じてもらえなくなることだった。
話を聞いていた若い職員は、予定表の一行を消し、代わりに確認の時間を書き込んだ。
小さな変更だったが、現場の人々には意味があった。
禁輸の知らせに市場はざわめいた。
アシュラン王は備蓄庫の鍵を机に置き、配給を王宮から先に減らすと宣言した。
リーナは種子まで食料に回す案を退ける。
「今日を生き延びても、春に蒔くものがなくなります」
ダリオは村の倉庫を調べ、持ち寄れる穀物の量を報告した。
帝国の封鎖に勝つ前に、国内の信頼を失わないことが必要だった。
しかし、船の数だけでは冬を越せない。
リーナはアルディアの畑を見た。
小さな苗が風に揺れていた。
封鎖を破る最後の答えは、海の向こうではなく、この土の中にある。
アシュラン王は帝国からの条件書を読み、港湾権の譲渡欄に筆を置きかけた。
冬の配給表には、子供のいる世帯の不足が赤く記されている。
リーナは王に反対するだけでは済まなかった。
「今ある備蓄で、港の労働者を含めて何日もつのか。私の見積もりが外れたら、最初に責任を問われるのは私です」
村の代表が集まると、農民は種麦を食べる案を拒み、船乗りは荒天の迂回航路に賭ける危険を説明した。
会議は夜明けまで続き、王は譲渡文書を破る代わりに、配給の優先順位と不足分を公開する命令へ署名した。
国の尊厳を守る決断は、空腹を消してはくれない。
配給を減らされた港の労働者たちは、王宮の門に集まった。
リーナは彼らの前で不足量を読み上げた。
ひとりの父親が
「王の誇りで子供の腹は膨れない」
と叫ぶ。
王はその言葉を遮らず、王宮の備蓄を先に開く命令を出した。
港湾権を渡さないという決断が正しいかどうかは、翌朝の食卓で問われることになった。
翌朝から、その代償を皆で引き受けることになった。
国境で足止めされた荷車の御者が、空になった荷台で戻ってきた。
「禁輸を破れば、故郷の家族が捕まる」
リーナは密輸を頼まなかった。
代わりに、王国内の備蓄を減らす日数と、その影響を受ける村の名前を公開した。
拍手は起こらない。
だが村長たちは、自分たちが何を引き受けるかを知ったうえで、輸送の順番を決め始めた。




