第百十四話 一日千トンの食糧を生み出す計画
農業評議会の黒板に、リーナは大きく『一日千トン』と書いた。
会議室がざわめく。
アルディアの現在の収穫量では、遠すぎる数字だった。
千トンの目標を聞いた倉庫係は、秤の故障を報告した。
数字だけ増やせば、腐った穀物も収穫に数えられる。
リーナは生産表に廃棄量の欄を追加し、実際に食べられる量で計画を組み直した。
最初の豊作を祝う夜、畑を失った老人だけが広場に来なかった。
リーナは収穫祭を抜け出し、彼の家を訪ねた。
新しい畑の成功が、すべての人の成功とは限らない。
老人の話を聞き、翌春の貸付地を用意する約束をした。
「毎日千トンを畑から刈り取るわけではありません」
とリーナは説明した。
「季節ごとの収穫を年間で平均し、保存と加工を含めて、食べられる食糧を一日千トン供給できる体制を目指します」
農業技師のナディアが地図を広げた。
必要な耕地面積、単位面積当たりの収量、作付け回数、収穫損失、輸送中の腐敗率。
数字を積み上げると、最初の計画は到底届かなかった。
さらに貯水池の試験掘削で塩水が湧き、想定していた水量の三分の一を失った。
計画を進めれば、再生した畑まで塩害で枯れる。
「魔法を使えば何とかなる」
と誰かが言う。
「魔法が足りないときのために計算するんです」
ナディアは即答した。
彼女は目標達成年を二年延ばし、試験区で塩分を監視しながら雨水貯留と排水路を先に整備する修正案を示した。
会議室から不満が上がったが、リーナは
「できない数字を守るために、畑を殺すことはできません」
と支持した。
工事の見学会に来た老人は、古い河道を指さした。
『雨の年には、あそこから水が来た』
若い技師が地図を調べると、確かに地面の下に砂利の層が続いていた。
古い記憶は測量の代わりにはならない。
だが、測るべき場所を教えてくれる。
ナディアは老人の名前を調査記録に残した。
水が最大の問題だった。
大陸中央の地下水は塩分が高く、無計画に汲み上げれば土地が沈む。
技師たちは古い河道を調べ、雨季の短い豪雨をためる貯水池と、水を再利用する水路を設計した。
飲料水用の井戸と農業用の水路は分けた。
作物の種類も麦一種類ではなく、豆、雑穀、根菜を組み合わせる。
村の長老が計画図を見て言った。
「その水路は、祖先の墓を通る」
技師は線を引き直した。
工事が早くても、住民の土地と記憶を踏みにじれば長く続かない。
水路の位置を決める会議には、女性や借地農も参加した。
収穫予測の数字を聞いた商人は、すぐに輸出契約を結ぼうとした。
リーナは断った。
『まだ食糧が足りない村があります。
先に国内の必要量を確かめます』
利益を逃すと嘆く大臣に、彼女は小学校の給食表を見せた。
週に二度しか豆が出ない村があった。
計画の成功は、まずその表が変わることだった。
リーナは一日千トンという目標を掲げたことを、少し後悔した。
大きな数字は人を勇気づけるが、数字だけが独り歩きする。
そこで評議会は、収量だけでなく子供の栄養状態、土壌の回復、水の使用量、農家の収入も毎月公表することにした。
工事の途中、堤が崩れて泥水が流れた。
塩分を含む水が試験区へ入り、最初の麦の一列が黄色く変色した。
負傷者は出なかったが、下流の村の畑が浸かった。
リーナは責任者を呼び、現場を閉鎖した。
「目標に間に合わせるために、誰かの畑を犠牲にするなら、この計画は失敗です」
工事費から補償を払い、堤の設計を見直した。
夜の会議で、技師たちは失敗した堤の模型を作った。
誰かを責めるためではなく、どこで水圧を読み違えたかを知るためだ。
ロアンは壊れた模型を机に残した。
『次に同じ場所を作る人が、失敗を見られるように』
リーナは模型の横に補償の記録も置いた。
数字だけでなく、困った人がいたことを忘れないためだった。
ミリナは学校帰りに工事現場を見に来た。
「一日千トンって、どれくらい?」
「あなたの村の人が、明日も明後日もご飯を食べられる量を、ずっと積み重ねた数字よ」
一日千トンという数字は、今日の収穫量ではない。
複数地域の収穫期をずらし、数年かけて到達する加工・集荷能力の目標だった。
リーナは会議の黒板に
「現在の収穫量」
「来年の目標」
「五年後の設備能力」
を別々に書いた。
期待だけを先に売れば、冬に飢える人が出る。
「じゃあ、私も数える」
ミリナは小石を並べた。
十個、百個、千個。
数字の向こうにある食卓を想像しているようだった。
畑の端で、リーナは麦の袋を持ったまま立ち止まった。
「今日の数字より、来月の食卓を見てください」
村人が視線を上げる。
収穫を数える手を止め、農夫たちは来季に残す種の量を計算した。
リーナは明日の食事を待つ家族の顔を思い浮かべ、決定の理由を一つずつ伝えた。
反論も聞いた。
すぐに正解は出なかったが、責任を分け合う方法だけは決まった。
その日の倉庫には、売らない麦の袋が一つ増えた。
戸口に立つリーナへ、
「明日の朝も同じ方法でできるでしょうか」
と声が届いた。
一度きりの成功を喜ぶ声が止まり、手順を見直す人々が集まった。
リーナは言葉だけで済ませず、その場の担当者と次の一歩を決めた。
次の日、別の担当者が同じ結果を出した。
水場に立つリーナへ、
「先に使う人を決めるのは、私たちではありません」
と声が届いた。
住民たちは順番を巡って言い争ったが、最も困る家の事情を聞き始めた。
やがて列は静かになり、遅れて来た老人にも場所が空いた。
診療所に立つリーナへ、
「治った人だけを数えてはいけません」
と声が届いた。
寝台に残る患者を見て、助手は報告書の数字を書き換えた。
翌日の巡回先には、その患者の家も加えられた。
秋の試験収穫では、計画の第一段階を上回った。
だがナディアは報告書の最後に書いた。
『成功は一季節では証明できない』
リーナはその一文を消さなかった。
希望を守るには、都合の悪い数字も残す必要がある。
その日の午後、農業評議会で、ノエは収穫予測を担当する若い技師と向き合った。
収穫予測を担当する若い技師は一日千トンという目標に計算の誤りを見つけた。
その言葉に、周囲の者は答えを急いだ。
しかしノエは、相手が言い終わるまで遮らなかった。
リーナは加工損失と備蓄を計算し直し、都合の悪い数字も議事録に残した。
誰かが
「それで十分ですか」
と尋ねた。
十分だと言える人はいなかった。
それでも、いま確かめられる事実を一つずつ積み上げるしかなかった。
計画書の
「一日千トン」
という数字を見て、ノエは赤線を引いた。
「これは今の収穫量ではありません。灌漑、作付面積、倉庫が揃った後の目標です」
王の側近が公表を急いだが、リーナは段階表を添えるよう求めた。
初年度は試験区画、次年度は周辺農地、その先に広域生産。
夢を大きく語るほど、達成していない数字を実績に変えてはいけなかった。
会議が終わるころ、反対の声が上がった。
「そんな手間をかけていたら、間に合いません」
ノエは窓の外へ目を向けた。
農業評議会には、結論を待つ人がいる。
急ぐ理由は確かにある。
だが、焦りを理由に危険を隠せば、次に失うものはもっと大きい。
「今日できることと、明日まで待つべきことを分けましょう」
反対した者も、しばらくして作業の順序を尋ねた。
ノエは千トンの数字の横に、小さく
「達成条件」
と書いた。
水路、種、倉庫、運送人。
どれか一つ欠ければ計画は崩れる。
リーナは会議室を出て、畑で働く人々に予定表を見せた。
「無理な日程なら、今ここで直しましょう」
最初に修正されたのは収穫量ではなく休息日だった。
その夜、国境から使者が駆け込んだ。
帝国の商館が、アルディア向けの穀物取引を突然停止したという。
新しい畑が育つまでの空白を狙った動きだった。
会議室では一瞬、誰も声を出せなかった。
千トンという未来の数字より、明日の配給をどうするかが先に迫ってきた。
リーナは黒板の目標を消さず、その下に
「冬を越す」
と書いた。




