第百十一話 食糧価格を十倍に吊り上げた商人たち
アルディアの市場に、収穫祭の翌朝とは思えない値札が並んだ。
昨日まで銅貨二枚だった麦一袋が、銀貨二枚になっている。
十倍だ。
リーナは値札の前で足を止めた。
村の人々は豊作を喜んだばかりだった。
なのにパンを買えない子供が、また市場の隅に座っている。
市場の秤の前で、母親は買える麦を一握りずつ減らしていった。
昨日の値段なら家族の三日分になったはずだ。
リーナは怒鳴る代わりに、倉庫から市場までの運送記録を取り寄せた。
荷が減っていないのに値札だけが跳ね上がった理由を、誰もが確かめられる形にするためだった。
食糧商人は高値の理由を
「輸送費だ」
と主張した。
リーナは馬車の通行記録を広げ、空の荷車にまで費用が請求されていることを示した。
値下げを迫る前に、誰が飢えから利益を得たのかを明らかにした。
飢えた子供へパンを渡すと、商人は
「市場が崩れる」
と抗議した。
リーナは無償配給を緊急分に限り、翌週の種籾を買い上げる契約を別に結んだ。
今夜の命と来年の畑、その両方を守らなければ改革とは呼べなかった。
「麦がなくなったんじゃない」
とフィオナが言った。
「倉庫にある。けれど商会が全部買って、出さないの」
一万袋の収穫は、国全体の飢えを終わらせるにはまだ小さかった。
リーナたちは配給分を確保したものの、農民が生活費を得るため市場へ売った分まで管理できない。
大商会『黄金秤』はそこを突いた。
農家へ収穫前に貸した種代を盾に、安値で買い取り、町では高値を付けた。
リーナは商会長エリックの屋敷を訪ねた。
金色の穀物を描いた看板の下で、護衛が行く手を塞ぐ。
「商売は違法ではない」
応接室でエリックは笑った。
「買う自由も売る自由もある。あなた方が収穫を増やしたおかげで、私の倉庫は満杯です」
朝の炊き出しで、配給係は麦の量をいつもより細かく量っていた。
列の最後にいた老人は、自分の分を孫へ渡そうとした。
リーナは老人にも器を渡した。
『誰かが食べなければ、誰かが助かるという仕組みを、当たり前にしたくありません』
厨房の鍋はまだ小さい。
それでも、空腹を数の調整だけで解決した気になるのは違うと思った。
「倉庫に麦があるのに、病院の患者が飢えている」
市場の端で、父親が小麦袋を半分だけ買おうとして断られていた。
値札は昨日の十倍。
幼い娘は父親の袖を引き、
「今日は食べなくてもいい」
と言った。
リーナは怒りを飲み込み、商人の倉庫の入出庫記録を求めた。
値段を責めるだけでは、隠された穀物は出てこない。
彼女は飢えた親子を証人ではなく、守るべき人として避難所へ案内した。
「なら、病院が高く買えばよい」
夕方、農業組合の会合では、直売所の売値をめぐって激論になった。
安くすれば町の人が助かる。
だが農家が赤字になれば、来年の畑が消える。
リーナは双方の意見を板に書き、種代、労賃、輸送費を別々に示した。
『一つの正しい値段ではなく、続けられる値段を決めましょう』
長い沈黙の後、農民が自分から数字を修正した。
その一言で、リーナは交渉の目的を変えた。
相手の良心に頼るのはやめる。
誰が、いつ、いくらで、どの倉庫へ運んだのか。
まず数字を集めることにした。
農民たちを集めると、最初は誰も口を開かなかった。
商会に逆らえば来年の種を借りられないからだ。
ミリナの父親が、擦り切れた契約書を差し出した。
「字が読めない俺に、利息の欄だけ小さく書いてあった」
ほかの農民も次々に契約書を持ち寄った。
夜明け前、商会の倉庫を見張っていた青年が走ってきた。
『裏門から袋が出ています』
リーナは追いかけることを禁じ、車輪の跡と荷札を記録させた。
相手を捕まえるために救援隊が暴力を振るえば、目的を失う。
国境警備隊へ通報し、法に基づく検査を求めた。
焦るフィオナに、リーナは言った。
『証拠は急いで集める。
でも裁くのは私たちじゃない』
リーナはその場で契約を無効だとは宣言しなかった。
王国の法律を調べ、弁護士と農業組合を呼び、違法な利息と偽造された印を一つずつ確認した。
怒りよりも証拠の方が、人々を長く守れる。
一方、フィオナは村ごとの余剰麦を調べていた。
倉庫を持たない農家は、収穫後すぐ売るしかない。
そこで共同保管庫を借り、重量と品質を公開する直売所を開く。
購入は一世帯ごとの必要量を基本とし、病院と炊き出しへ優先配分する。
農家には相場を見ながら分割払いで代金を渡した。
開設の日、エリックの手下が直売所の前で叫んだ。
「商会を潰せば来年は種が届かないぞ!」
「来年の種は、今年の収穫から残してあります」
エルナの弟子が封をした種袋を掲げた。
農民の列から、小さな拍手が起こった。
会議が終わると、リーナは必ず現場へ足を運んだ。
机の上の数字は必要だが、数字だけでは聞こえない声がある。
作業を終えた人が何に困っているか、子供がどこで待っているか、井戸まで何歩歩くか。
彼女は質問を重ね、答えを急がなかった。
レイヴンから教わったのは、奇跡の薬の製法だけではない。
目の前の人を一人として扱う、その根気だった。
日が暮れると、アルディアの風は急に冷たくなった。
かつて灰色の砂しか舞わなかった道に、今は荷車の轍が続いている。
リーナは道端で立ち止まり、遠くの畑を眺めた。
収穫が増えれば仕事が増え、仕事が増えれば争いも起こる。
豊かさは問題をすべて消すわけではない。
それでも、明日を選べる人が増えるなら、その変化には意味がある。
フィオナは毎晩、報告書の末尾に『まだ届いていない村』の欄を残した。
成功した場所だけを数えれば、会議は気持ちよく終わる。
だが地図の端には、まだ食事が足りない家がある。
リーナはその欄を最初に読んだ。
拍手を受けるより先に、忘れられた人を探す。
それが、救援を受ける側だった彼女自身が覚えた約束だった。
倉庫で、リーナは麦の袋を持ったまま立ち止まった。
「帳面に載らない人がいます」
村人が視線を上げる。
配給を受けられなかった家族の名が挙がり、係員は閉じた台帳を開き直した。
リーナは明日の食事を待つ家族の顔を思い浮かべ、決定の理由を一つずつ伝えた。
反論も聞いた。
すぐに正解は出なかったが、責任を分け合う方法だけは決まった。
夕方には、名簿の外にいた家にも食料が届いた。
窓辺に立つリーナへ、
「ここから先は、私が引き受けます」
と声が届いた。
若い職人は震える指で工具を握り直し、隣の者が灯りを寄せた。
リーナは言葉だけで済ませず、その場の担当者と次の一歩を決めた。
夜明けには、作業を続ける者が二人増えていた。
倉庫に立つリーナへ、
「帳面に載らない人がいます」
と声が届いた。
ただし直売所を開いただけでは、すべての村に麦が届かない。
リーナは荷車の台数を数え、遠い村への輸送費を計算した。
市場の勝利を祝うには、まだ早かった。
商人が倉庫を閉めた夜、母親は子供に
「明日のパンはある」
と嘘をついた。
リーナが訪ねると、子供は母の嘘を知っていて、黙って水を飲んでいた。
価格表の数字を一つ下げるだけでは足りない。
彼女は翌朝の配給場所をその家に伝え、輸送隊の出発を見届けた。
値上がりした麦を前に、フィオナは市場の掲示板へ仕入れ価格を書き出した。
商人たちは営業妨害だと抗議する。
リーナは価格を命令で下げる代わりに、共同倉庫の在庫と輸送費も公開した。
誰がいくら負担しているか見えるようになって、初めて交渉が始まった。
夜、エリックの倉庫から荷車が十台出た。
フィオナが行き先を確かめると、国境近くの貴族領だった。
麦は国外へ逃がされる。
リーナは王宮に向かった。
「値段だけの問題じゃない。次は、誰が飢えを作っているのかを明らかにします」
同行を申し出たフィオナに、リーナは市場の子供たちを頼んだ。
「犯人を見つけても、今夜のパンにはならない」
フィオナは頷き、共同倉庫へ駆け出した。
市場の子供が
「悪い商人を捕まえたら、明日はパンが安くなる?」
と尋ねる。
彼女は首を横に振った。
「すぐには分からない。でも今夜は食べられるようにする」
倉庫の扉を開けると、抗議していた商人の一人が袋を運ぶのを手伝った。
値札を巡る争いの向こうに、同じ町の明日があった。




