第百十話 死の大陸に、一万袋の小麦が実った
最初の試験収穫から一年。
アルディアの平原には、かつてなかった色が広がっていた。
緑の帯が水路に沿って伸び、季節が進むと金色へ変わる。
すべての土地が蘇ったわけではない。
赤い杭の立つ危険区画も残っている。
それでも、百ヘクタールから始めた農地は段階的に拡大し、今年の収穫は一万袋に届こうとしていた。
一万袋の麦を前に、農夫たちは値段の話を始めた。
豊作で安くなりすぎれば、借金を返せない。
高すぎれば、村の子供が買えない。
リーナは農民と商人、消費者の代表を同じ卓に着かせた。
最低買い取り価格を設け、備蓄への購入分と市場に出す分を分ける。
簡単な答えはなかったが、誰か一人が決めるより、困る人の声が聞こえた。
倉庫係が最後の袋を数え上げた。
「九千九百九十九……一万」
歓声が上がった直後、農民の一人が袋の底から湿った麦を取り出した。
雨漏りした倉庫では、収穫があっても冬まで持たない。
国王アシュランは祝宴の開始を遅らせ、職人たちと屋根へ上った。
リーナは検査済みの袋だけを備蓄に計上し直した。
数字は一万に届いた。
それでも食べられる一万袋になるまで、勝利を宣言しないと決めた。
倉庫の床には湿気を逃がす隙間が作られ、袋は壁から離して積まれた。
鼠を防ぐための金網も設置した。
ハルトは温度計を指さし、
「穀物は収穫して終わりじゃありません」
と子供たちに説明した。
ミリナは真剣に聞き、
「じゃあ、パンを守る家なんだね」
と言った。
ハルトは笑った。
「その通り」
一万袋の価値は、腐らせず冬まで届けて初めて生まれる。
収穫の分配は、祝宴より先に決められた。
翌年の種子、非常用備蓄、学校給食、村ごとの配給。
残りを市場へ出す。
大臣は高値で輸出すれば国庫が潤うと主張したが、国王は退けた。
「まず国民の皿を満たす」
リーナは価格が急落して農民が困らないよう、最低買い取り価格と公開入札の仕組みを提案した。
豊作が農家の破産を招いては意味がない。
収穫祭に参加した老人が、祖父の代に作られた古い歌を歌った。
歌詞はところどころ欠けていたが、若者たちが新しい言葉を足した。
『乾いた土に、水を引こう。
誰かの手から、次の手へ』
リーナは歌声の中に、遠い昔のレイヴンの工房を思い出した。
最初は一人の患者と一瓶の薬だった。
今は何百人もの手が、一袋ずつ麦を積んでいる。
畑の端で、子供が乾いた土を握ってみせた。
指の隙間からこぼれる砂に、まだ水は残っていない。
リーナは収穫の予測より先に、その場所の土を記録させた。
村の共同かまどでは、ミリナが粉を量っていた。
去年はパンを一つ食べるのがやっとだった少女が、今は同じ年頃の子供に生地の丸め方を教えている。
「大きくしすぎると、真ん中が焼けないんだよ」
母親は笑いながら、かまどの火を調整した。
リーナはその姿を見て、最初に村へ来た日の静けさを思い出した。
今は子供たちが騒がしい。
騒げるほど元気なのだ。
王都へ帰る馬車の窓から、リーナは赤い杭の残る土地を見た。
再生した畑より、まだ荒れた土地の方が広い。
だから悲観するのではない。
どこが危険で、どこから始めればよいか分かるようになったのだ。
ミリナからもらった麦の穂を手に、リーナは次の計画を開いた。
輸入商人の値上げ、貴族の横流し、灌漑施設の維持費。
難題は増えていた。
それでも、もう『不可能』という言葉だけでは片づけられない。
収穫祭には各国の技術者が集まった。
エリックとサナはまた水路の改修方法で言い争っている。
ノエは来年の輪作計画を壁に貼り、ダリオは祖父の絵を新しい畑の写真の隣に並べた。
「昔の景色が戻ったんじゃない。私たちが新しく作ったんだ」
彼の言葉に、技術者たちは静かに頷いた。
一万袋の麦は、最初の試験区から一度に採れたわけではない。
収穫は数か月にわたり、周辺の改良済み農地から順に集まった。
袋ごとに産地と収穫日を記し、翌年の種麦を先に取り分けた。
村人たちは配給の列に並ぶだけでなく、自分たちで倉庫の鍵を管理した。
収穫量の数字が発表されたあと、リーナは村の保健担当者に別の報告を求めた。
栄養失調の子供は減ったか、井戸水による病気はどうか、学校の欠席者は。
結果は改善していたが、遠い村ではまだ厳しい状況が続いていた。
一万袋という数字が、人々の苦しみを隠してしまわないようにしたかった。
祝宴の終わり、リーナは国王に一枚の紙を渡した。
『次の十年の計画』
穀物倉庫、井戸、学校、農業研修所、そして土壌監視制度。
国王は苦笑した。
「今日は休んでくれないか」
リーナも笑った。
「明日からで構いません」
そのとき、国境から急使が駆け込んだ。
輸入穀物を扱う大商会が、アルディア向けの価格を一斉に引き上げたという。
国王は収穫祭の壇上で、農民の名を一人ずつ読み上げた。
技師や医師だけでなく、水路を掘った人、種子を守った人、食事を作った人の名前もあった。
途中で紙が足りなくなり、広場に笑いが起きた。
アシュランは笑いながら言った。
「全員を読み終えるまで、私はここを動かない」
夕暮れまで名前が続いた。
「収穫を祝っている場合ではありませんか」
と大臣が青ざめた。
リーナは倉庫の扉を見た。
一万袋の麦が、確かにそこにある。
「いいえ。だからこそ、今日の収穫が大切なんです」
彼女は国王に向き直った。
「次は、この国が自分の食べ物を自分で守れる仕組みを作りましょう」
一万袋は終着点ではなかった。
飢えを終わらせるための、最初の確かな土台だった。
ダリオは一万袋の倉庫を見て、祖父の絵をそっと巻いた。
「もう、この絵だけを見て暮らさなくていい」
彼は新しい畑の絵を描いてもらうつもりだった。
そこには水路と風よけの木、子供たちの学校も入れるという。
リーナは頷いた。
昔の景色を取り戻すだけではなく、昔より暮らしやすい土地を作る。
それが復興だった。
帰り際、ミリナはリーナに小さなパンを渡した。
「今度は私があげる番」
少し焦げて形も歪んでいたが、香りは温かかった。
リーナは受け取り、一口食べた。
最初にこの村へ来たとき、彼女は最後のパンを少女に渡した。
今、少女が自分で焼いたパンを差し出している。
救う側と救われる側は、いつまでも同じではない。
リーナはそう思い、笑顔で礼を言った。
戸口で、リーナは麦の袋を持ったまま立ち止まった。
「明日の朝も同じ方法でできるでしょうか」
村人が視線を上げる。
一度きりの成功を喜ぶ声が止まり、手順を見直す人々が集まった。
リーナは明日の食事を待つ家族の顔を思い浮かべ、決定の理由を一つずつ伝えた。
反論も聞いた。
すぐに正解は出なかったが、責任を分け合う方法だけは決まった。
次の日、別の担当者が同じ結果を出した。
その夜、リーナは一万袋の麦のうち、最初に検査を終えた一袋を学校へ運んだ。
子供たちは袋の口を開け、手のひらに数粒ずつ載せた。
「これが、ここで育った麦?」
教師が頷くと、教室に小さな歓声が広がった。
リーナは言った。
「来年は皆さんが種を選び、水を守る番です」
ミリナは手を挙げた。
「私、もう始めてるよ」
その手には、保存に失敗して黒ずんだ麦の粒があった。
「この袋を捨てたら、来年も同じ失敗をする」
ミリナは成功した畑ではなく、湿った倉庫の温度を調べたいと言った。
収穫の歓声の中で、リーナは初めてその一袋を皆に見せた。
豊作を守る仕事は、収穫が終わった日から始まる。
その笑顔を見て、リーナはこの国の未来を数字だけでは測れないと思った。
その冬、収穫量の多かった村で、保存庫の麦が腐った。
責任者の農夫は辞職を申し出たが、ミリナは湿度計の記録を見せた。
「あなたが毎日書いたから、原因が分かったんです」
農夫は辞職届をしまい、来年の倉庫を改修する計画に署名した。
豊作の英雄を作るより、失敗を報告した人が次も働ける村を作るほうが難しかった。




