第百九話 食糧商人は奇跡の農園を焼こうとした
麦の収穫から十日後、農園の外れで火が上がった。
乾いた風が炎を運び、倉庫の屋根に火の粉が降る。
「水路の弁を開けろ!」
ハルトが叫んだ。
修復したばかりの灌漑路から水が流れ、畑の周囲に細い帯を作る。
村人たちは濡らした布で口を覆い、火が広がらない場所から土をかけた。
焼け跡から、商人の印が押された油壺が見つかった。
護衛はすぐ逮捕を求めたが、リーナは持ち主の記録を調べさせた。
疑いだけで裁けば、焼かれた畑と同じほど深い傷を残す。
火災の翌朝、ミリナは畑へ行こうとして母親に止められた。
「危ないから、今日は家にいて」
少女は泣きそうになった。
「また麦がなくなるの?」
リーナは膝をついて目を合わせた。
「一部は焼けた。でも、種は別の場所にもある。みんなで守ったから、また植えられる」
ミリナは黙って聞き、最後に尋ねた。
「私も何かできる?」
「できるよ。避難のとき、年下の子の手を握ってあげて」
リーナは負傷者を診る一方、倉庫の避難を指示した。
ミリナたち子供は学校へ移され、人数が確認された。
誰も取り残されていないと分かって、初めて彼女は息をついた。
火は夜明け前に消えた。
畑の一部が焼けたが、種子庫は守られた。
水路を作っていなければ、すべて失っていたかもしれない。
捕らえられた御者は、自分の家族も飢えていたと告白した。
金貨が必要で、依頼を受けたのだ。
リーナは彼の事情を聞いたが、放火の危険が消えるわけではないと伝えた。
「あなたが困っていたことと、村の人を危険にしたことは別です」
御者は俯き、捜査への協力を約束した。
彼の家族には別の支援窓口から食糧が届くよう手配された。
焼け跡から油の染みた布が見つかった。
偶然の火災ではない。
護衛隊長は商人組合を疑った。
飢饉の間、穀物を高値で売っていた商人たちは、アルディアで麦が育つことを歓迎していない。
だがリーナは決めつけなかった。
「証拠を集めてください。疑いだけで人を捕らえれば、私たちも同じことをする」
焼けた畑の土は、熱によって性質が変わっていた。
ノエはそのまま種を蒔こうとする村人を止め、試料を採った。
火を消した水が汚染物を運んでいないか調べる必要もある。
農園を守るとは、炎を止めることだけではなかった。
翌週、再検査に合格した区画から作付けが再開された。
ダリオは鍬を振りながら言った。
「去年は、検査なんて面倒だと思っていた。でも今は、子供に胸を張って渡せる麦を作りたい」
翌日、村に一人の荷馬車の御者が現れた。
「火をつけろと頼まれた。でも、子供がいると知って逃げた」
彼は震える手で金貨を差し出した。
依頼主の名が刻まれた封筒もあった。
商会主ベルドの印。
国王の監査官が帳簿を調べると、複数の放火未遂に報酬が支払われていたことが分かった。
ベルドは逮捕されたが、リーナは裁判が終わるまで罪を確定した言い方をしなかった。
事件の報道で寄付金が集まった。
リーナは全額を警備費に回そうとする提案を退けた。
「守るための人員は必要。でも畑が育たなければ、守るものがなくなる」
寄付は防火帯、種子の分散保管、村人の訓練、負傷者の治療に分けられた。
会計表は広場に貼られた。
透明な仕組みは、放火犯より目立たない。
だが、次の妨害に耐える力になった。
火災の後、村人の間で意見が割れた。
「もう農園を広げるな。狙われる」
「だから広げるべきだ」
ダリオは焼けた麦を手に立ち上がった。
「怖いです。私も怖い。でも、ここでやめれば、来年も子供たちに輸入のパンを待たせることになる」
沈黙のあと、老人が一本の鍬を持ってきた。
「明日の朝から、ここを耕す」
放火の知らせは王都にも届き、強硬な貴族は軍隊の派遣を求めた。
リーナは警備の増員には賛成したが、村全体を軍の管理下に置く案には反対した。
「守るために畑へ入れなくなったら、本末転倒です」
農民代表と警備隊が話し合い、夜間の巡回路を決めた。
収穫や水路の修理は止めず、危険な場所だけを封鎖する。
リーナは農園の警備を強めるだけでなく、種子を複数の村に分けて保管した。
水路の弁にも鍵を設け、開閉記録を公開する。
技術者たちは防火帯を広げ、倉庫の屋根を不燃材へ替えた。
「壊されない仕組みはありません」
とハルトは言った。
「でも、一度壊されても終わらない仕組みなら作れます」
火を消した夜、ハルトは自分の手の震えに気づいた。
かつて師匠ゴルバが工場の爆発を防いだ話を聞いていたが、実際に炎の前に立つのは初めてだった。
リーナは彼に温かい飲み物を渡した。
「怖かったでしょう」
ハルトは頷いた。
「でも、逃げたら水路が壊れると思って」
リーナは言った。
「怖いときは、次は人を呼んで。装置は直せても、あなたの代わりはいない」
焼け跡から見つかった油布には、商会の荷印が残っていた。
しかしリーナはそれだけで商人ベルドを犯人と決めなかった。
荷印は盗める。
見張りの証言と、火災前日に商会が買い集めた消火用の水桶の記録を照合した。
さらに雇われた男が、報酬の半分しか払われていないと証言した。
リーナは怒りを抑え、証拠を監察官へ渡す。
「裁くのは私ではありません。でも、また火をつけさせない責任はあります」
ミリナは焼け残った種を一粒拾い、掌に包んだ。
その夕方、ミリナが焼け跡に小さな旗を立てた。
布には不器用な字で『ここに麦を植える』と書いてあった。
リーナは笑いそうになり、喉が詰まった。
子供が未来形で話せるようになった。
それだけで、この農園はすでに何かを変えていた。
村人は焼け跡の片づけを、共同作業として行った。
怒りで無理をする人が出ないよう、作業時間を区切り、休憩所に水を置いた。
ミリナは子供たちと一緒に小石を拾い、道の端へ並べた。
石の列は、やがて新しい防火帯の目印になった。
小さな手の仕事も、農園の再建に役立った。
事件の裁判が始まると、商会主ベルドは
「農園は自分たちの商売を壊す」
と訴えた。
リーナは証言台で答えた。
「商売をする自由はあります。でも、人を飢えさせて利益を守る自由はありません」
法廷は静まり返った。
彼女は勝利を誇らなかった。
裁判が終わっても、来年の麦を育てる仕事は続くのだから。
焼けた畑の片隅で、ダリオは小さな芽を見つけた。
火を逃れた種が、湿った土から顔を出していた。
彼は抜かずに周りへ石を置いた。
「この芽は、ここで育てる」
リーナは頷いた。
火をつけた者を裁くことと、畑を再び育てることは別の仕事だ。
前者だけに心を奪われれば、商人たちの望むとおり農園は止まる。
彼女は翌朝の作業表に、新しい種まきの予定を書き込んだ。




