第十一話 薬草の値段が突然十倍になった
薬屋の戸を開けた途端、レイヴンはいつもと違う匂いに気づいた。
乾燥させた青葉草の甘い香りがしない。
棚の上には空になった麻袋が三つ、口を開けていた。
「今日も仕入れられませんでした」
帳面を抱えたマリシアが言う。
昨日まで銅貨八枚だった青葉草一束が、今朝は銀貨八枚。
十倍だ。
しかも商人は、現金を積んでも売れないと言ったらしい。
「他の薬屋は?」
「神殿の指定店だけ、以前の値段で入荷しています」
レイヴンは答えず、机の上に薬草の在庫を並べた。
治療を待つ患者は十二人。
列の最後には、母親に背負われた少年がいた。
発熱で唇が乾き、名前を呼ばれても目を開けない。
重い病を抱えた老人が二人、熱を出した子供が四人。
今ある材料で作れる回復薬は九本だった。
翌朝、レイヴンは薬の在庫をもう一度数えた。
昨夜、子供に使った回復薬が一本減っている。
患者の数は増え、薬草の袋は軽くなるばかりだ。
工房の奥でマリシアが包帯を煮沸していた。
薬がないからといって、できる処置まで諦めるわけにはいかない。
「いつまで持つでしょう」
「三日。節約して五日かな」
その数字を聞いて、リーナの母親は顔を曇らせた。
彼女は薬草を買うための寄付を申し出たが、レイヴンは断った。
生活費を削らせてまで薬を作っても、別の困窮を生むだけだ。
「必要なのは一度きりの寄付じゃない。来月も、その先も材料が届くことです」
彼は市場の地図を広げ、薬草がどの道を通って王都へ来るのかを確かめ始めた。
「今日の分は重い人から。軽い症状の人には、代わりの処置と飲み水を用意しよう」
少年の母親は
「私が薬草を探します」
と立ち上がったが、夜通し働いた足は震えていた。
レイヴンは椅子を差し出し、
「あなたが倒れたら、息子さんを抱く人がいなくなる」
と告げた。
マリシアは頷いたが、唇を噛んだ。
薬を求めてやって来た人に、薬がないと告げる仕事ほど辛いものはない。
昼過ぎ、レイヴンは市場へ向かった。
問屋の主人は顔を見るなり奥へ引っ込もうとした。
「値上げの理由だけでも教えてください」
「悪いな。うちだって商売だ。大口の買い手が全部押さえちまった」
「誰です?」
主人は声を落とす。
「聖療商会。神殿の御用達だ」
翌日、レイヴンは商会の荷車が向かった先を調べた。
荷札には神殿の倉庫番号が記されている。
倉庫番は扉を開けなかったが、隙間から見えた麻袋には王都の薬屋が使う印がついていた。
市場に薬草がないのではない。
必要な人へ届かないよう、止められている。
レイヴンは少年の母親が持っていた、使い込まれた薬草袋を思い出した。
空の袋の重さを知る者だけが、この買い占めの本当の値段を知っていた。
薬屋ではマリシアが、回復薬を必要とする患者の順番を決めていた。
最初に来た人が最初に受け取るのではない。
呼吸が苦しい人、発熱が続く子供、傷口が化膿した職人。
理由を説明するたび、待たされる人の顔が曇る。
「僕の薬がなければ、もっと困る人が出る」
レイヴンが呟くと、マリシアは首を振った。
「あなた一人の責任にしないでください。私たちは仕組みを変えないといけないんです」
その言葉は、レイヴンの胸に残った。
王宮では一人の技術を競わせることばかり考えていた。
だが患者に必要なのは、誰が偉いかではなく、明日も薬が届くことだった。
店先の秤には、昨日まで使っていた価格札が裏返されていた。
値上げは不作のせいではない。
誰かが流通を止めたのだ。
夕刻、薬屋に戻ると、リーナが小さな紙包みを差し出した。
「裏山で採ったの。お薬に使える?」
工房の灯りが消えた後も、レイヴンは帳面を閉じられなかった。
数字は冷たく、容赦がない。
薬草の量、患者の人数、明日までに必要な薬瓶。
どの欄も足りないものばかりだった。
それでも、名前の並んだ患者一覧を眺めると、ただの不足表には見えなくなる。
一人ひとりに家族がいて、帰る家があり、待っている人がいる。
彼は王宮で教わった
「貴重な薬は高い身分の者へ」
という考えを思い出した。
あの頃は疑う余裕さえなかった。
今なら分かる。
薬が足りないときこそ、誰を救うかの理由を、誰にでも説明できなくてはならない。
値札を張り替える薬草商の指は震えていた。
彼も仕入れ先から十倍の請求を受けている。
レイヴンは怒鳴る代わりに請求書を見せてもらい、値上げの起点が一つの倉庫だと突き止めた。
少年の母は、薬代として父の形見の指輪を差し出した。
「これで足りますか」
レイヴンは受け取らず、薬の在庫表を母親にも見せた。
「いま九本あります。必要な順番は医師が決めます。お金では決めません」
少年の熱が下がるまで、母親は眠らず額の汗を拭いた。
翌日、別の患者の薬が一日遅れた。
レイヴンはその家にも事情を説明し、代替の治療を手配した。
買い占めへの怒りを、誰かを後回しにした事実でごまかしたくなかった。
中には見慣れない草が入っていた。
細い葉の裏に銀色の斑点がある。
万象解析を働かせたレイヴンは、目を見開いた。
青葉草と同じ魔力反応が、弱いながらも確かに存在している。
「リーナ、これはどこに生えていた?」
「誰も使わない荒れ地。いっぱいあるよ」
最後の薬草袋を前に、マリシアは患者の名前を一人ずつ読み上げた。
レイヴンは残量から作れる薬を数え直し、今夜必要な患者の分を先に確保した。
「買い占めた相手と争う前に、ここで待つ人を見失わない」
翌朝、彼は農家へ直接会いに行くため、泥だらけの靴を履いた。
レイヴンは値上がりした薬草を前に、患者の予約票を並べた。
最初に削るべきは検査ではなく、仕入れの無駄だ。
マリシアが期限の迫る患者に印を付ける。
「買い占めに勝つために、患者を負けさせるわけにはいかない」
二人は夜のうちに代替材料の試験を始めた。
レイヴンは草を包み直した。
買い占められたのなら、買わずに済む道を探すしかない。
その夜、レイヴンは薬棚の空いた場所を布で拭いた。
明日ここに何を置けるか、まだ分からない。
けれど、患者が来たときに空の棚を見せるだけの薬屋にはしたくなかった。
銀斑草の包みを机に置き、彼は新しい実験帳を開いた。
その夕刻、薬屋の前に一台の荷車が止まった。
荷台には空の木箱だけが載っている。
運んできた少年は、問屋の主人からの伝言を預かっていた。
「今夜、城壁の西門で荷を積み替える」
レイヴンはそこへ行き、遠くから荷の行き先を見届けた。
積み替え先の馬車には神殿の印。
箱の中身は薬草だった。
少年は震えながら言った。
「うちの父ちゃん、薬を売らなかったら仕事をなくすって」
レイヴンは少年を責めなかった。
誰かを追い詰めているのは、この子ではない。
翌朝、彼は問屋へ戻り、仕入れを再開できる日が来たら取引したいと伝えた。
主人は驚き、しばらく言葉を探した。
「あんた、俺を恨まないのか」
「困っているのは患者です。あなたの店も、きっと困っているでしょう」
主人は小さく頷いた。
レイヴンは市場を出ると、荒れ地の方角を見た。
買い占めに対抗するためには、誰にも止められない新しい原料が必要だった。
問屋の主人も、最初から悪意で薬を止めたわけではなかった。
商会からの契約を断れば、自分の店が潰される。
家族を守るために従ったのだと、彼は後で打ち明けた。
レイヴンはその事情を聞き、怒りの向け先を見誤ってはいけないと思った。
目の前の商人を責めるだけでは、明日も同じことが起きる。
誰かが一つの倉庫を押さえれば街の薬が消える、その仕組みを変える必要があった。
翌々日、薬屋に来た老人は、手に小さな硬貨を握っていた。
「これだけしかないが、薬を一本分けてくれないか」
マリシアは老人を椅子へ案内し、まず症状を確かめた。
熱はなく、呼吸も安定している。
薬より休養と食事が必要な状態だった。
レイヴンは硬貨を返し、炊き出しをしている隣の家を教えた。
「薬を売れば、僕たちは今日の売上を得られる。でも、あなたが本当に必要としているものは別です」
老人は何度も礼を言って帰っていった。
レイヴンは扉を閉め、帳面の余白に
「治療とは薬を渡すことだけではない」
と書いた。
商会が薬草を買い占めても、できることはまだある。
包帯を洗うこと、清潔な水を用意すること、患者の話を聞くこと。
そのすべてを続けながら、彼は新しい原料を探す決意を固めた。
市場の鐘が鳴った。
店を閉める商人たちが看板を下ろし、荷車が石畳を軋ませて通り過ぎる。
レイヴンはその音を聞きながら、薬屋の窓を閉めた。
仕入れの値段は明日も下がらないだろう。
それでも、あの荒れ地にはまだ誰も手をつけていない草がある。
リーナが見つけた小さな希望を、今度は自分が確かな薬へ変える番だった。
薬草の値段は、紙の上の数字ではなかった。
待合室の椅子に座る人の顔であり、家族が差し出す硬貨の重さだった。
レイヴンは翌日の仕入れ先を探し続けた。




