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アキが帰ると既に純平と絵里香は寝室で眠りに着いていた。
「・・・疲れた。」
アキはため息混じりに独り言を言う。冷蔵庫を開け2リットルのペットボトルに入った水をそのままラッパ飲みする。絵里香が何度注意してもこの飲み方をアキはやめない。今となっては蓋の開いたペットボトルに絵里香は手を出さなくなっていたし、寝室に小さなワンドアの冷蔵庫を一つ購入すらしていた。そこにはでかでかと「エリカ専用!」というマグネットが貼られている。
アキはソファで寝ていたり、ざこ寝したり、トイレや風呂場、果てはキッチンで寝ている事があり、純平と絵里香はまずアキがどこで寝ているか探す事が朝一の日課になっていた。以前どこ探しても見当たらなかったので外泊していると思い、二人が夕方良い雰囲気で寝室のベットで事を始めようとした瞬間、ベット下から埃にまみれたアキが出てきた事もあった。純平は大爆笑だったが絵里香は憤慨して、出てきたアキの後頭部を思いっきり踏み付け失神させたという。この時も大量の鼻血を出したらしい。
更にアキは部屋のあちこちに何かを描いていて、例えばトイレの天井の換気扇に訳の分からない数式を書いたり、浴槽の蓋の裏にスプレーとアクリルで見た事のない文字を描いたり、リビングの端から端まで鉛筆で矢印を引きその長さを記入したりと純平の家では解読不可能なアキの痕跡が至る所で伺える。
絵里香は愚痴をこぼしながらも、結局の所こんなアキの奇行を寛大に受け止めていて、時にはちょっとした落書きや言動に心をくすぐられる事もあった。
今夜のアキはきちんとキャンバスへ向かうようだ。
時計は5時を指し、外は太陽を迎え入れる為の大地の儀式が始まろうとしていた。光が刺し闇を蹴散らす神聖な儀式を前に世界が緊張に包まれる。
アキは30本程の木炭を芯抜きしカッターで先端を鋭く尖らす。麻の荒目で地塗りしていないF120号のキャンバスは、麻そのものの茶色がかった鈍い色をしていた。これを縦に立て掛け、大きく息を吸い込むと、もの凄い早さで一気に描き始めた。眼光は鋭さを増し、力の入った木炭の先がボロボロと崩れていく。まるで魔物の群れに取り残され一人戦う勇者のように、その動きは激しく荒い息遣いへと変わっていく。木炭は瞬く間に1本消化し、新たな木炭を取っては次から次へとキャンバスへと擦り込む。30本全ての木炭を使い終える頃には画面が真っ黒くなっていた。否、一見ただの黒い絵のように見えるが一本一本の線が形を作り、微妙な濃淡で立体感すら出ていた。何か具象的な物を描いているわけではないが、まるで線全てが活き活きと生きているようであり、その線が形作った面は確かに「存在」していた。アキはキャンバスの下に山積みとなった木炭の欠片を手にすると3メートルほど離れ、そこから勢いよく投げつけた。小さな塊だった木炭の欠片は更に細かく砕け散り、キャンバスに
はその一瞬の爆撃が刻印された。柔らかな筆で描いた部分が動かぬように、細心の注意を払いながら木炭のクズをほろっていく。必要以上に黒が強くなってしまった部分はガーゼで優しく拭き取り濃淡を調整していく。フィキサチーフというスプレー式の定着剤をまだらに吹きかける。続けて液体のフィキサチーフを全体に筆で塗っていくのだが、先程スプレーがかかっていない部分は液により若干木炭が動き、ごく僅かな滲みも出来、画面に動きが生じていた。キャンバスの四隅はあえて塗り残され、麻の茶色と木炭の黒のコントラストが美しい。
アキが手を止める頃には夜が明けていた。木炭の散乱した床の上にアキは倒れ込み泥のように眠りについた。
8時になると絵里香が起きてきた。一瞬真っ黒のアキに驚くがキャンバスを見て木炭だと分かった。丸くなり穏やかな寝息をたてるアキに「まったく。」と小さくささやくと微笑み毛布をかけた。
アキを起こさぬように慎重にホウキで木炭クズを掃除する。
絵里香はソファに腰掛けアキの作品をジッと見ている。
「すげーな。」純平が起きてきた。
「早いのね。昨日も遅かったんでしょ?」
「3時過ぎかな。アキはヒロさんに捕まってもっと遅かったんじゃねーのかな?」
「もう少し寝てたら?」
「いや、だいじょぶだよ。それにしてもこいつ、朝方帰ってきてからこれ描いたのか?」
「そうだと思うよ。おととい沢山キャンバス張ってたから。」
アキが描いた作品は朝の光を浴びて、何重にも塗り重ねられた木炭が漆黒に輝く光沢を放っていた。それはジャングルにいるような巨大な昆虫の背中のようだ。
アキは寝返りをうつ。
「寝てる顔だけは可愛いのにね。」
絵里香が言うと純平は笑った。
「俺もちょっとやる事あるからスタジオにいるわ。」
純平達は機材の置いてある部屋をスタジオと呼んでいた。
「うん、分かった。あんまり無理しないでね。後でコーヒーいれるから。」
純平は絵里香のおでこに軽くキスをしスタジオに入っていった。
「さてと。」絵里香は立ち上がりキッチンでコーヒーメーカーに豆を入れエスプレッソを挽き、朝食の準備を始めた。
スタジオは12畳ほどの広さであったが宅録用のレコーディングミキサーや大小のアンプやスピーカー、ウッドベースやチェロまで置いてあるので実質動きがとれるのは半分ほどであった。ましてや今はアキの分のギターや機材も置いてあるので、辺りは乱雑とし異様な程の音楽空間となっていた。
純平は昨日までリトモで演奏した三人の音を一から聴き直していた。音源はパソコンへと取り込み無音の部分や話しをしている部分を取り除く軽い編集も同時に行った。楽譜にそれぞれのパートを書き起こし色々とメモを取っている。ヘッドホンをアンプに差し込みベースを構え、自分のベースラインが録音されたチャンネルを無音にしアキと坂本の音に新たなラインを乗せていく。目をつむり神経を集中させ試行錯誤を繰り返す。「もっと高く」アキの言葉を思い出す。耳に飛び込むアキのギターと坂本のドラム。ハイになって行く感覚。考えるより前に指が縦横無尽にネックを滑る。ここだ!ここだ!とフレーズを楽譜に書き込む。
絵里香は軽くノックをするとそっとスタジオに入り、エスプレッソのコーヒーと麦芽の茶色のサンドウィッチをドアの前に置き何も言わず出て行く。
純平は絵里香が入ってきた事にすら気づかない程集中しベースに打ち込んでいた。1時間、2時間、指はミシン針のように強弱をつけながらただひたすら動く。休みなどない。汗で長袖のシャツはびっしょりになっていた。結局絵里香の朝食を食べたのは昼過ぎだった。冷めたエスプレッソがやけに苦かった。
「ごちそうさん。」純平は汗だくで空いた皿をリビングへ持ってきた。
アキは起きていてソファの上で膝を抱え座りながら、見た事もないハングル語がパッケージのスナック菓子を食べていた。
絵里香はメガネをかけパソコンに向かっている。
「あれ?今食べたの?お昼は?」絵里香が問う。
「いや、いいよ。今食べたから。ちょっとシャワー浴びてくるわ。」純平はキッチンに皿を置きアキの方を見て「アキは?飯食ったの?」
アキはスナックのカスにまみれた指を舐めながら、テレビを見ている。
絵里香がすかさず、「食べたよ〜。サンドウィッチ4つも食べてカップラーメン食べてお菓子食べてるんだよ!食い過ぎじゃん?」
純平は笑う。
「何そのお菓子?」
純平が尋ねるとアキはパッケージの裏側を見て読めない文字をマジマジと見ている。
「これ、昨日ヒロが帰り際にくれた。韓国でライブやったんだとさ。」
「マジで?何味?それ。」
「う〜ん。なんだろね。とりあえず香辛料大量にぶっかけた感じ。」
「うまいの?」
「うん。クソまずい。」
絵里香が笑い
「ほんとまずいよ。ジュン食べてみて!」絵里香は楽しそうに言う。
「やだよ、んなもん。」純平がお菓子の袋を覗き込む。
「いやいや、クソまずいとか言って全部食ってんじゃん!」
「えっ!」絵里香は驚きアキの元へ行く。
「うわっ、ほんとに食べたの?バカじゃん!」
「アホかっ。三日三晩食わずに重労働で腹減ってたんだよ。今の俺にはこんくらいの香辛料が必要なの。」アキが言うと二人は笑った。
絵里香はパソコンに戻り純平は浴室へと向かった。
アキは汚れた指をズボンで拭きタバコに火を着ける。
外は気持ちの良い春晴れだった。
部屋が一瞬シーンと静寂した。アキはいきなり服を脱ぎ始めた。「ちょっと何なのよ!」絵里香が驚く。
「風呂入ってくる。」
「えっ、純平と?二人で入んの?」
パンツだけのアキは「うん。」とうなずく。
「気持ちわるっ。」絵里香の顔がこわばる。
「ちょっとそれは脱衣所で脱いでよ!」その瞬間アキは絵里香の前でパンツも下ろした。「ちょっとぉ、何なのこの人!ほんとやなんだけど!早く行けバカ!!」
アキはネズミ男のように忍び足でそそくさと風呂場へ行った。絵里香はため息をつき、アキの食べた物と脱ぎっぱなしの服を片付けた。
浴室からはシャワーの音が聞こえる。アキはなりふり構わずドアをいきなり開け、バスチェアーに座っている純平のシャワーを横取りする。
「ちょっ、何なんだよ!」シャンプーの泡が落ちきっていない純平は目も開けられずキョロキョロしている。
「アキっ?バカ!返せよ!」
アキはシャワー圧を最大に上げ純平の頭に目掛ける。
「うぉぉー!!」純平は肩をすくめ硬直する。
アキは笑い声を上げながらシャワーを上下させる。
「俺が落としてやんよ。」
「もういい!もういい!」二人の騒ぎ声がリビングまで聞こえる。
純平がシャワーを取り返す。
「何なんだよ。いきなり入ってきてよー。」
「ほら、しゃぶれ!」アキは純平の目の前に自分のモノをグッと差し出した。純平はあまりにも目の前に出されものだからイスから転げ落ち、ラックのシャンプーやボディソープを勢いよく落とした。
脱衣所の洗濯機にちょうどアキの洗濯物を入れにきていた絵里香が、そのやかましい物音に浴室のドアを開ける。アキは腰に手をあて体を沿っている。純平は爆笑している。
「おいっ!お前がしゃぶれ!」アキは絵里香に振り向いた。その瞬間絵里香は目一杯のビンタをした。
純平が濡れた髪でハーフパンツを履き上半身裸で出てきた。「あぁ、参った。」
絵里香は無反応にパソコン画面に向かいキーボードを忙しく打っている。
純平は冷蔵庫を開け缶ビールを手にする。
「来週土曜日ライブだったよね?」絵里香は何事もなかったように尋ねる。
純平はビールを飲みながらコクリとうなずく。
「真理誘ってみよっかな。」
純平は腕で口を拭い
「どうだろうな。何かいつもの喧嘩と雰囲気違うしな。気まづくね。」
「でもいつまでもこのままじゃいけないでしょ?アキはともかく真理がかわいそうよ。」
「確かに。あいつも勢いで飛び出したものの、最近ぼーっとしてる事多いもんな。でも真理連れて来た所でどうすんのよ?」
「ううん。どうするってわけじゃない。ただ元気なアキを真理に見せてあげたいなって。真理もアキもお互いの顔見たらまた何か心境の変化あるかもしれないじゃん。このまま二人が終わっていくなんて悲し過ぎるよ。」
「真理来るかな?」
「多分すんなりとは来ないと思うけど、そこは任せといて!」
「アキには言わない方がいいか?」
「そうだね。私が無理やり連れて来たって事にしよ。」
ガチャっと浴室のドアが開く音がすると、絵里香は再びキーボードを打ち始め、純平はビールを一気に飲み干した。




