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「昨日ね、リジンのデビューアルバムの打ち合わせに少し顔出してきたの。」
絵里香は真理と夜から喫茶店で待ち合わせをしていた。ティアラというこじんまりとした店で、外見は蔦で覆われ古びていたが決して不潔な感じはなく店内はアンティークの椅子や雑貨がセンス良く並べられていた。フレスコでコーヒーを出し、小皿にナッツが付いてくるのが名物であった。音楽好きなマスターがオールドからモダンまでジャズやフュージョンを流している。壁には大きなジュリアン・シュナーベルの絵画のレプリカが飾ってあり、ブリキのコーヒーミルが3台、白い塗装のはげた鉄製の棚に飾られている。閉店が夜中の12時と遅く、それらも気に入りいつも二人の待ち合わせはここだった。
アキと純平が出会ってから三年と数ヶ月。それは真理と絵里香が出会い友情を深めていった月日でもある。
真理はアキの京橋の個展以来連絡を取るようになり、ごく自然と会う回数は増えていき一年が経つ頃にはアキが真理の元に転がり込み同棲を始めた。先日アキが家を飛び出すまで二人は非常に親密な関係であったのは周囲もよく分かっていた。
難解なアキという破天荒な男に散々な目にあう事も多々あり、時には廃人と化した彼を介護や介抱にも似た行いをする事もあった。それはリー・クラズナーがポロックにしてあげていたそれに似ている。しかし真理はリーのように強気でぐいぐい引っ張って行くのではなく、一歩引いた所からおとなしく見守るのが常だった。
アキが出て行ってからはカラフルなアメ玉が全てなくなってしまった空っぽの大きな瓶のように真っ白で何もない日々が淡々と続いていた。結局のところ真理は何があってもアキの事を深く深く愛していたし、彼女以上にアキを理解し力になった者はいない。アキの残していった大量の絵画と詩の数々は真理の寂しさに拍車をかけるだけだった。
「そうなんだ。皆元気?」ブラックを飲めない真理はコーヒーには必ずミルクとシロップを一個づつ入れるのがお決まりだった。カップを両手に持ち少し下を向いている。声と表情からはよく笑い明るい真理の元気さは感じられない。アキの何気ない一言で髪は中学の頃のように短いショートヘアにしていた。
「うん、皆相変わらず。なんかねぇ、アキから色々とワガママ言ったみたいで、ザザレコード、かなりの気使ってすごい待遇の良さだったよ。新人にしては稀だって。」
絵里香は大きめの黒のパーカーにデニムのミニスカート、肩より少し長いサラサラなストレートの髪を真ん中で分けている。
「ごめんね。ずっと電話でなくて。」真理が申し訳なさそうに下唇を少し噛む。
「うん。いいんだよ。今日こうして無事会えたから。とりあえず安心した。アキになに聞いても全然答えないし、真理も電話出ないからあんた殺したんでしょ!?って言ってあげたわよ!そしたらあいつお前を殺して俺も死ぬとか訳分からない事言い出して、その日買ったツモリチサトのワンピ食いちぎったのよ!信じられる?」
絵里香はタバコに火を付け笑った。
真理もフッと少し笑い
「相変わらずなのね。」
またうつむき
「やっぱり出て行ってからは絵里香の家に行ってたのね。」
「出てったのは一ヶ月前でしょ?うちに来たのは10日ぐらい前からよ。それまでずっとホテル暮しだって!贅沢よね!」
「ごめんね、迷惑かけちゃって。」
「ほんとよ!アキが来てから毎晩朝までドンチャン騒ぎなんだから!ビールを水代わりに飲むのよ。ワンピース食いちぎられるし。」
絵里香はタバコの灰を焼き物調の灰皿に落としながら笑って
「でもいいのよ。純平はなんか楽しそうだし。二人にも色々訳があるんでしょ?一生アキ抱えてくのはまっぴらごめんだけどね。」
二人して笑う。
昨日の事、バンドの事、何気ない普通の会話、そんな話しをしながら一時間が過ぎた。
「ところで何があったの、真理?」
絵里香が表情を変え真剣な面持ちで尋ねる。
真理は考え込んで沈黙の時間を作る。時計は22時をまわり店内にはテーブル席の真理達とカウンターには白い髭を生やした初老の男が一人いるだけだ。四つ角にあるBOSEのスピーカーからは初期のハービー・ハンコックが流れている。
「・・・私じゃダメなのかな。」
真理はそう言うと一気に瞳に涙を浮かばせる。
「真理がダメな訳ないじゃん。二年も一つ屋根の下暮らしてきたんでしょ?私だったら3日で無理だよ。はたから見たって真理の献身ぶりは表彰ものよ。喧嘩したの?何かされたの?」
真理は強く首を振り否定する。
「アキは何もしていない。きっと誰が悪いとかじゃないと思うの。もし誰かが悪いとしたら私なの。」
絵里香は困ったような表情で静かに耳を傾けている。
「どうしてだろうね・・・。最近アキが求めている事は私がしてあげたい事と食い違っているような気がするの。アキはいつも走っていて全速力で、私の知らない所で私の知らない事を知らないうちに凄いスピードで成し遂げちゃうの。私は一緒に暮らしているのに孤独を感じたり隣りに居るのに遠くへ行ってしまうような感覚があるの。私はアキの音楽聴いても絵を見ても小説読んでも、どれも素晴らしいと思うし凄いって思うけど、それ以上の事が何もないの。」真理の目からは一粒の涙が流れた。
絵里香は優しく応える。
「でもそれでいいんじゃないの?アキの芸術に私達が入り込めるはずなんてないんだから。純粋に凄いとか素晴らしいって真理に思ってもらっていたらアキはそれでいいと思うよ。」
「うん、初めはそうだったの。何も言わず付いて行こうって。だから私が変わってしまったのかも。アキが何かに打ち込んでいる時間を少しだけ私に向けて欲しかった。アキにとって何が1番であるか、それは私なりに理解していたつもり。それなのに私はアキがしなければならない事を邪魔しようとしちゃったんだ。アキが出て行ったあの日、実は将来の話しをしたの。」
「将来?結婚とか?」
「ううん、結婚の話しはしなかった。でも子供の話しをしたの。何気なく、何も考えずごく普通に将来は女の子が欲しいねって。ちょっと田舎に家を建てて伸び伸び子育てとかしてみたいねって。アキは少しお酒入ってて、なんか一気に不機嫌な感じになったのが分かった。私はちょっと気になりながらも、アキは男の子と女の子どっちがいいって尋ねたら。急に怒りだしたの。」真理は両手を椅子とお尻の間に挟みうつむいた。
「えっ、それで怒って壁に穴空けたの?」絵里香はため息をつき「私達も最近よく将来の話ししたりするよ。もちろん純平も特殊な事やってるから、一般人の私なんかとはどっか感覚ズレてて喧嘩になる事もよくあるんだ。私の場合大抵ねじ伏せちゃうけどね。」
「アキにね、二年間も一緒にいて何一つ分かっていないって言われたの。ショックだった。すごくショックだった。だから私今までになくアキに反論したの。アキは私の事分かっているの?普通の女性としての幸せを願っちゃ駄目なのって。でもそれがいけなかったの。」
「全然いけなくないよ!一人の女性として女性らしいごく当たり前な幸せを望むのは自然でしょ?」
真理は涙を流し首を振る。
「今までアキにそれを求めなかったからきっと一緒に居てくれたの。私の所へ来てくれたの。アキの1番の理解者になろうと頑張ったけど無理だったんだね。」
絵里香はあまりにもアキを想い懸命に愛そうと愛されようとする真理を目の前にし、深く同情し真理と一緒に涙を流した。
もう周りに他の客はいず、マスターが奥の方でガチャガチャと片付けを始めた。二人は外へ出て駅の方へと歩いて行く。
「ありがとう、絵里香。元気でた。楽しかったよ。」真理は少し目を腫らしながらもいつもの無垢な笑顔で歯を見せる。タクシーに乗った真理に絵里香も笑って返し、手を振る。まだ肌寒い四月の夜だった。




