第95話 核へ至る道
縦穴の戦線が安定したのは、ほんの束の間だった。
押し返したはずの異形は、裂け目の縁へと滑るように退き、完全には消えない。
核の脈動が止まらない以上、ここはただの前線ではなく、異常の波が絶えず打ち寄せる“岸”のようなものだった。
中央の岩棚に立ち、縦穴の奥を見つめる。
深い。広い。そして、遠い。
裂け目の向こう、暗闇のさらに先にある脈動。その中心に、異常核がある。
だが、今のままでは辿り着けない。
「……道がないな」
前衛が、いつものように簡潔に言う。
事実だった。
縦穴の先は、岩棚が断続的に続いているように見える。だが、それは目で見えるだけの話だ。
空気の条件が場所ごとに違いすぎる。踏み込める場所と、踏み込んだ瞬間に足場の概念ごと消える場所が混ざっている。
しかも。
「敵も待ってる」
感知役が低く言う。
視線の先。裂け目のさらに奥、核へと続く細い通路群。
そこに、異形の気配がいくつも張り付いていた。
数は読めない。気配そのものが空間に混じっている。だが、少なくとも十や二十では利かない。
「正面突破は無理」
補助役が断言する。
「途中で空気が切れる区画も多い。大部隊じゃ通れない」
「だからこそ、だ」
責任者が中央に歩み出る。周囲の視線が集まる。
「核まで向かうのは最小構成」
短い。だが、それ以上ないほど明確だった。
「先行隊を絞る」
騎士隊の隊長が眉をひそめる。
「危険すぎる」
「大部隊の方が危険だ」
責任者は即答した。
「この環境では、人が増えるほど判断が鈍る。魔法の干渉も増える。必要なのは数じゃない」
その視線が、こちらへ向く。
「条件を作れる者だ」
静かに、腹の奥が熱くなる。
逃げ場のない言葉だ。だが、嫌じゃない。
「異常対策班を中心に、突破班を編成する」
責任者の声は、もう迷っていなかった。
「騎士隊から精鋭六名。魔導士隊から支援二名。調査班はここで前線維持」
ざわめきが走る。当然だ。核へ向かう先行隊は、事実上の決死隊に近い。
だが、反対の声は出なかった。
ここにいる全員が理解している。
核を止めなければ、この戦場は少しずつ死ぬ。
「準備は十五分」
責任者が言い切る。
「その間に、突破経路を作れ」
短い指示。だが、今の自分に必要なのは、それだけだった。
岩棚の端に移動する。核へ続く通路群が、複雑に入り組んで見える。
自然洞窟とは思えないほど整った形状だ。誰かが意図的に削ったように、あるいは、何かが侵食した結果そうなったように。
「……どうする」
前衛が隣に立つ。
いつもより少し声が低い。
「道を作るって、簡単に言うけどな」
「簡単じゃない」
そう返す。
「でも、できる」
前衛は小さく鼻で笑う。
「そういう顔だな」
顔?
少しだけ意識する。
確かに、不思議と迷いはなかった。
怖くないわけじゃない。核の脈動を感じるたび、身体の奥が本能的に警戒する。
あの深層で味わった“通用しない感覚”も、まだ完全には消えていない。
だが、あの時とは違う。
今は、“分からないから怖い”んじゃない。
分からないものに対して、何を考えればいいかが見えている。
「……通り道を作る」
地形を見ながら言う。
「全部を正常に戻す必要はない」
補助役と感知役も加わる。自然と四人で輪ができる。
「必要なのは、核までの最短ルート」
指で空間をなぞる。中央の岩棚から、裂け目の縁を沿って、右下の狭い通路へ。
そこから奥の縦亀裂を抜ければ、核の間に最短で届く。
「問題はここ」
感知役が指差す。通路の途中。細い裂け目が何本も交差している地点だ。
「ここは空気が断続的に消える」
「周期は?」
「一定じゃない。でも脈動に連動してる」
核の拍動。
つまり。
「リズムを読むしかない」
自然と口に出る。
「核の脈動に合わせて、道を開く」
補助役が息を呑む。
「そんなことできるの?」
「できるかじゃない」
短く返す。
「やるしかない」
それが本音だった。今必要なのは、完璧な正解じゃない。
通るための条件を、一瞬でも揃えることだ。
「感知」
「任せろ」
「脈動の間隔を読む」
感知役が目を閉じる。
縦穴全体の揺れに意識を広げているのが分かる。
「補助」
「場の接続?」
「ああ。局所圧力場を点じゃなく、線で繋ぐ」
補助役が少しだけ唇を噛む。
「かなり無茶だよ」
「分かってる」
「でも」
補助役は、すぐに小さく笑った。
「嫌いじゃない」
それで十分だった。
「前衛」
呼ぶ。前衛は腕を組んだまま、こちらを見ている。
「最初の突破、頼む」
少しだけ間。
それから、前衛は静かに言った。
「やっと、それ言ったな」
思わず眉をひそめる。
「何だよ」
「いや」
口元が少しだけ上がる。
「最初から、それでいいんだよ」
短い言葉。だが、胸に残る。
前は、一人で答えを出そうとしていた。
全部、自分で埋めようとしていた。でも、今は違う。
「……行くぞ」
十五分は、あっという間だった。
突破班が集まる。騎士隊の精鋭たちは、余計なことを言わない。
ただ、それぞれの武器を確認し、鎧を締め直している。
魔導士隊の支援も、術具を最低限に絞っていた。
無駄な装備は、ここでは足枷になる。
責任者が全員を見る。
「目的は核への到達」
簡潔だ。
「撃破は二の次。まず位置確認、可能なら破壊」
その言葉に、誰も異を唱えない。
「異常対策班が道を作る。全員、それに従え」
短い沈黙。
それから、責任者は最後にこちらを見た。
「頼む」
たった二文字。だが、その重さは十分だった。
「……はい」
短く返す。
息を吸う。視線を前へ向ける。裂け目の先。核へ続く道。
暗闇の中に、かすかに脈打つ異常の気配。今までなら、ただ恐れていた場所。
だが、今は違う。あそこへ行く。届く。
そのための条件を、こっちで作る。
「感知、読むぞ」
「来る」
感知役の声が静かに響く。
「次の脈動まで……三、二——」
世界が、少しだけ静まる。
その瞬間。
「今だ!」
魔力を解放する。
一点。二点。三点。
裂け目の縁に、局所圧力場を連ねる。空気のない場所に、流れの通り道を作る。
見えない橋。だが、確かに“通れる”。
「走れ!」叫ぶ。
前衛が先頭で飛び出す。
その背を追って、突破班が一斉に駆け出した。
裂け目の向こう。核へ至る道が、今、初めて開かれた。




