第94話 局所戦場支配
巨大な影が闇の奥に沈んだあとも、誰もすぐには動けなかった。
縦穴の底から吹き上がってくるはずの風はない。空気はそこにあるのに、流れが止まっている。さっきまで耳に入っていた鎧の擦れる音や、誰かの息遣いさえ、どこか遠くに引き延ばされたように感じた。
ただ、あの“視線”だけが、まだ皮膚の上に残っている。
「……見たな」
前衛が低く言う。
「ああ」
短く返す。
それ以上の言葉は要らない。あれが、今までの異常の中心にいる存在。その輪郭だけでも十分だった。
「全隊、前進は保留!」
責任者の声が、張り詰めた空間を切り裂いた。
「縦穴上部の足場を確保しろ。前線を広げるな!」
即座に指示が飛ぶ。
混乱はない。だが、全員が緊張の中で動いているのが分かる。
ここで足を止めるのは、恐れているからじゃない。あの脈動の直後に無理をすれば、壊れると全員が本能で理解しているからだ。
「……賢明だな」
感知役が呟く。
「今、突っ込んだら全滅する」
「同感」
補助役も珍しく即答した。
だが、その直後。縦穴全体が、再び脈打った。
どくん、と。今度はさっきよりも近い。
「っ……!」
岩棚の空気が一斉に揺らぐ。左右の通路から、悲鳴が上がった。
「左翼、異常発生!」
「後衛区画、魔法不全!」
「防壁術式、消失!」
声が重なる。
裂け目の影響が、一気に広がった。
「まずい」
反射的に縦穴全体を見渡す。前線だけじゃない。
さっきまで安全だった岩棚の足場まで、条件が変わり始めている。空気の密度が場所ごとにズレ、圧が逆転し、音の伝わり方も乱れている。
部隊の動きが、少しずつ噛み合わなくなっていた。
「中央隊、押し込まれてます!」
誰かが叫ぶ。
見ると、縦穴中央の岩棚で、騎士隊の一部が押され始めていた。
相手は四体。高位個体だ。さっきの連中よりも、さらに“異常領域に馴染んでいる”。
騎士隊の槍が届かない。魔導士の援護も、途中で軌道が歪んでいる。
「このままだと前線が割れる」
補助役が低く言う。
その通りだ。しかも、今回は一点じゃない。
縦穴全体の複数箇所で、綻びが出ている。
「どうする」
前衛の問いは短い。だが、その中に焦りはない。
決めるのは自分だと分かっている声だった。
一瞬だけ、考える。今までの局所圧力場。
あれは、一点の突破には使える。
だが、この規模じゃ足りない。
一点を支えても、別の場所が崩れる。
「……局所じゃなく、流れを繋ぐ」
口に出した瞬間、自分でも少し驚いた。
だが、間違っていない。
「何する気?」
補助役が問う。
「戦線を点じゃなく、線で繋ぐ」
言葉が、はっきりと形になる。
「前線の要所に、小さな圧力場を複数置く。全部を覆うんじゃない。踏み込みと防御の起点だけを支える」
「簡易の基準面か」
感知役が即座に理解する。
「ああ」
頷く。
広域圧力場にはまだ届かない。
だが、今の自分なら、複数の局所場を繋げて、一時的な“戦えるライン”くらいは作れるかもしれない。
「やる」
前衛が短く言う。
迷いはない。
「感知、揺れが浅い場所を拾え」
「任せろ」
「補助、外縁の維持を」
「当然」
全員が即答する。
「責任者!」
呼ぶ。責任者がすぐに振り向く。
「前線を三点に絞ってください。全部守るのは無理です」
一瞬だけ、周囲が静まる。
大胆な提案だ。だが、責任者は即座に理解した。
「維持できるのか」
「短時間なら」
「どれくらい」
「数十秒」
正直に答える。
短い。だが、戦場では十分だ。
責任者は一瞬だけ目を閉じ、すぐに決断した。
「全隊、聞け!」
その声が縦穴に響く。
「戦線を中央・右上・左下に再編! 不要な前進をやめろ! 指示のない区画は下がれ!」
ざわつきが走る。だが、部隊は動く。
それが王国の強みだ。無駄な意地より、生存と勝機を優先できる。
「……やるぞ」
深く息を吸う。
魔力を巡らせる。一点目。中央の騎士隊。
二点目。右上の魔導士隊。
三点目。左下の退路。
それぞれに、小さな圧力場を置く。
場を定義する。流れの起点。圧の基準。支えの条件。
「っ……!」
きつい。
今までの比じゃない。
一つなら感覚で制御できる。だが、三つを同時に維持すると、意識が引き裂かれるようだ。
視界が揺れる。頭の奥が痛む。
「中央、少し薄い!」
感知役の声。
「右上、揺れ出した!」
補助役の魔力が重なる。
「外縁、押さえる!」
助かる。
一人じゃ無理だった。本当に。
「前衛!」
「見えてる!」
中央の場が、成立する。前衛が飛び込む。
場の中では、空気が戻る。踏み込みが沈まない。
剣が加速する。敵の一体を、一撃で断ち切る。
「押し返せ!」
責任者の号令。
中央の騎士隊が一斉に前へ出る。
槍が届く。盾が崩れない。戦線が、戻る。
「右上!」
魔導士隊の火球が、今度は逸れない。
圧力場の中を通ることで、軌道が安定している。
敵の側面を撃ち抜く。左下では、退路を塞ぎかけていた異形を騎士隊が押し返した。
「……通った」
思わず漏れる。
戦線が、繋がっている。バラバラだった部隊が、ようやく同じ戦場に立てている。
「すご……」
補助役が、珍しく素直に呟く。
「戦線そのものを戻した」
だが、次の瞬間胸の奥が軋んだ。
「っ……!」
膝が揺れる。まずい。維持が限界だ。
「切れ!」
感知役の声。
「これ以上は壊れる!」
その通りだった。無理をすれば、場ごと暴発する。
「……解除!」
魔力を切る。
三点の場が、順に消える。一気に疲労が押し寄せる。
視界が白く揺れる。だが戦線は残った。崩れていない。
騎士隊も、魔導士隊も、今の数十秒で体勢を立て直している。
「……十分だ」
責任者が、いつの間にか目の前に立っていた。短く言う。
「今ので、三十人は死なずに済んだ」
重い言葉だった。だが、不思議と胸にはまっすぐ落ちた。
敵を倒したわけじゃない。勝ったわけでもない。
それでも、今自分がやったことには意味がある。
「……まだ、足りない」
自然と口に出る。
責任者が、わずかに眉を上げる。
「何がだ」
視線を、縦穴の奥へ向ける。
暗闇の先。あの核がいる場所。
「局所では勝てる」
静かに言う。
「でも、この規模じゃ足りない」
今のは、あくまで綻びを塞いだだけだ。
核そのものが動けば、この程度の場はすぐに呑まれる。
責任者は少しだけ黙り、それから短く言った。
「なら、次を考えろ」
無茶な励ましでも、慰めでもない。事実だけ。
「ここから先が本番だ」
その通りだった。
縦穴の奥。暗闇の中心で、また核が脈打つ。
今度は、さっきより静かに。
まるでこちらの動きを、観察しているように。




