第93話 空気の裂け目
広間を抜けた先から、空気の質はさらに変わった。
ただ薄いとか、重いとか、そういう単純な違和感ではない。
流れそのものが不規則に途切れ、次の瞬間には別の方向へ繋がる。まるで、見えない誰かが空間の条件を気まぐれに書き換えているようだった。
「……最悪だな」
前衛が低く呟く。
珍しく、その声に冗談は混じっていない。
「左右で音の反響が違う」
補助役が壁を見ながら言う。
「さっきの場所より、もっと不安定」
「中央はもっと酷い」
感知役の視線は、ずっと先を向いていた。
通路の先には、大きく口を開けた縦穴のような空間が広がっている。
天井は高く、下は見えない。幾重にも岩棚がせり出し、自然洞窟とは思えないほど整った地形が続いていた。
そして、その空間の中央。何もないはずの場所に、違和感がある。
見えているのに、繋がっていない。空間そのものが、裂けていた。
「……あれが」
補助役が息を呑む。
黒いわけでも、光っているわけでもない。ただ、そこだけ空気の輪郭が曖昧だ。
視線を向けると、焦点がわずかにずれる。音も、流れも、途中で吸われている。
裂け目。そう呼ぶしかなかった。
「異常核の影響圏」
調査班の責任者が、低く言う。
自分たちは前線を維持しつつ、ここまで先行してきた。
本隊は少し後ろで隊列を整えている。この空間の安全確認が済まなければ、前へは進めない。
「ここから先は、踏み込みを誤れば死ぬ」
短い言葉だった。だが、その事実に異論はない。
裂け目の周囲では、空気が断続的に消えている。いや、正確には“成立していない”。
自分の感覚でそれが分かる。流れがないのではなく、流れという概念そのものが通じていない。
そこへ不用意に踏み込めば、身体の支えも、呼吸も、魔法も、一瞬で奪われる。
「迂回は」
感知役が問う。
「無理だ」
責任者が即答する。
「この縦穴を抜けなければ、核の間には辿り着けない」
一本道。しかも、最悪の条件付きだ。
「つまり」
前衛が剣を軽く抜きながら言う。
「ここを、戦いながら渡れってことか」
その時だった。
裂け目の周囲の空気が、わずかに脈打った。
ぞわり、と背筋に冷たいものが走る。
「来る!」
感知役の声が鋭く響く。
次の瞬間、裂け目の縁から黒い影が湧き出した。
四体。前に見た個体より明らかに大きい。身体の輪郭が不安定で、岩棚を滑るように移動する。しかも、その動きに一切の音がない。
「散るな!」
責任者の声。
だが、広い空間では統制が難しい。
一体が天井側へ。
二体が左右。
一体が正面からまっすぐ来る。
「っ……!」
前衛が踏み込む。だが、すぐに止まる。
岩棚の中央に入った瞬間、足元の支えが消えかけた。
「くそっ!」
無理に踏み込めば、場ごと崩れる。
敵はそこを分かっているように、裂け目の境界を縫って動く。
「こっちのルールじゃ戦えない場所に誘ってる」
補助役が舌打ちする。
その通りだ。
敵は、自分たちが“戦えない空間”を知っている。
それなら「戦える場所を作る」
口に出した瞬間、腹が決まった。
「感知!」
「縦穴中央、右上の岩棚。そこだけ揺れが浅い!」
即答。
「補助、二点支えられるか」
「短時間なら」
「前衛、そこまで飛べるか」
前衛は裂け目の向こうを見て、口元をわずかに上げた。
「それ、できたら面白いな」
「やるぞ」
躊躇う時間はない。
一点の圧力場では足りない。ここでは、“道”が必要だ。
魔力を巡らせる。
一点目。足元の岩棚。場を定義する。
二点目。裂け目の縁。わずかに安定している座標。そこへ、圧力差を重ねる。
三点目。右上の岩棚。空間の薄い層を拾い上げるように、条件を繋げる。
「っ……!」
きつい。今までで一番負荷が大きい。
局所圧力場を複数点で維持し、それを流れとして接続する。
まだ理論として完成していない領域だ。視界の端が揺れる。
だが、「……繋がった」
自分でも信じられないくらい、はっきりと分かった。
点と点の間に、流れが生まれている。
見えない橋。空気の通り道。
「今!」
叫ぶ。
前衛が動いた。迷いはない。
一歩目で加速。
二歩目で、裂け目の縁を蹴る。
本来なら沈むはずの場所で、圧力場が足を押し返す。
三歩目。右上の岩棚へ。
「——っ!」
そのまま、天井側へ回り込んでいた敵に斬りかかる。
音はない。だが、剣筋だけが鋭く空間を裂く。
一体目、崩落。
「すご……」
補助役の声が漏れる。
だが、終わりじゃない。正面の二体が来る。
しかも、裂け目の境界を使って軌道をずらしてくる。
「左!」
感知役。
「分かってる!」
圧力場の左端を押し上げる。
条件を一瞬だけ変える。空気の通り道を曲げる。
敵の動きが、ほんの一拍だけ遅れる。
「そこ!」
補助役の強化。
責任者率いる前線部隊が、一斉に踏み込む。
騎士の槍が届く。魔導士の補助魔法が、今度は逸れない。
場がある。この空間の一部だけ、自分たちのルールが戻っている。
「押せ!」
責任者の号令。
前線が、一気に前へ出る。
二体目、三体目が押し切られる。
最後の一体だけが、裂け目の向こうへと滑るように後退した。
追うな。
誰もがそう理解していた。今のは、ギリギリだ。
一歩でも欲張れば、こちらが崩れる。
場を解く。
一気に疲労が押し寄せる。膝が少しだけ揺れた。
「大丈夫?」
補助役が支える。
「……まだ」
息を整えながら答える。本当にギリギリだった。
だが、縦穴の向こう。裂け目のさらに奥。
今まで見えなかったものが、わずかに輪郭を持ち始めていた。
脈動。規則的な揺れ。一定間隔で、空間そのものが軋んでいる。
「……自然じゃない」
自然と口に出る。
責任者がこちらを見る。
「何が分かる」
視線を奥へ向けたまま、答える。
「異常は、流れてない」
言葉を選ぶ。
「脈打ってる」
全員が静まる。
「一定周期で、条件が書き換わってる」
空気の成立。圧力。伝播。全部が。
「……つまり」
感知役が低く言う。
「あれは、現象じゃない」
頷く。
「誰か、あるいは何かが、やってる」
その瞬間。縦穴のさらに奥、深層の暗闇でどくん、と。今までで一番大きな脈動が走った。
裂け目の輪郭が、一瞬だけ広がる。空気が消える。音が止まる。
時間すら、止まったような錯覚。
そして、遥か奥。闇の中心に、巨大な影が、確かに“こちらを見た”。
背筋が凍る。理屈じゃない。本能が理解した。
あれが、核だ。今までの異常の、中心。
そして、本当の戦いは、まだ始まってすらいない。




