第92話 崩れる前線
ダンジョン中層を抜ける頃には、隊列の空気が目に見えて変わっていた。
出撃直後の緊張とは違う。もっと実務的で、研ぎ澄まされた集中だ。
前線に近づくにつれ、誰も無駄な会話をしなくなる。足音も、装備の擦れる音も、必要以上に響かない。
それでも、完全な静寂にはならない。
兵の呼吸。靴底が岩を踏む感触。鎧の重み。誰かの短い合図。
そうした小さな情報が積み重なって、部隊は進んでいた。
「……変わってきた」
感知役が小さく言う。
先頭から三列ほど後ろ。自分たちの異常対策班は、中央よりやや前の位置にいる。
前衛が前寄り、補助役と感知役が左右を見て、自分は流れ全体を見ながら歩いていた。
「何が」
補助役が問う。
「空気の揺れ」
短い返答。
「一定じゃない。場所ごとに密度が違う」
「もう始まってるってことか」
前衛が低く呟く。
頷く。深層の異常は、もはや奥だけの話じゃない。
ここはまだ中層寄りだ。以前なら、こんな手前で空気の違和感を覚えることはなかった。
「……前方、停止」
先頭から合図が来る。隊列が一斉に止まる。
ざわめきはない。ただ、全員が理由を察して身構える。
前方の通路は、少し広い空間に繋がっている。そこを抜ければ、前線の第一接触地点だ。
だが、今。空間の空気が、明らかにおかしかった。
「……音が薄い」
補助役が小さく言う。
その通りだった。
隊列の後ろから届く足音が、途中で吸われている。反響がない。岩壁に当たるはずの音が、どこかで消えている。
「区画ごとに違う」
感知役の目が細くなる。
「広間の中央。そこだけ、空気が切れてる」
「切れてる?」
「繋がりがない」
その表現の方が正しい。
空気がないわけじゃない。だが、流れも、音も、伝わりも、途中で途切れている。
まるで、そこだけ別の条件で上書きされているようだ。
「……厄介だな」
前衛が剣の柄に手をかける。
「前衛隊、突入準備!」
先頭の指揮官の声が響く。それと同時に、広間の奥から異形の影が現れた。
三体。人型に近いが、関節の位置が微妙にずれている。
脚は長く、岩壁を滑るように移動してくる。深層手前で見た個体に近い。
速い。しかも、音がない。
「来る!」
誰かの声。次の瞬間、前線がぶつかった。
重装騎士が盾を構え、魔導士が後方から火球を放つ。普通なら、それで十分に足止めできる布陣だ。
だが。
「……っ」
火球が途中で歪んだ。軌道が曲がる。
まっすぐ飛んだはずの炎が、広間中央に入った瞬間、横に流れて壁を焦がした。
「なに!?」
後方で魔導士が叫ぶ。
「風が——」
次の言葉は続かなかった。
広間中央の異常領域に足を踏み入れた騎士の一人が、急に体勢を崩す。
踏み込みが抜けた。地面ではない。空間そのものに支えがない。
「隊列が崩れる!」
叫び声。
敵がその隙を逃さない。三体のうち一体が、盾の隙間に滑り込んだ。
速い。前線が割れる。
「まずい」
反射的に前へ出る。
「前衛!」
呼ぶ。
「分かってる」
短い返答。
もう動いていた。前衛が、前線の割れ目に飛び込む。
だが、今のままじゃ足りない。
「感知!」
「中央右、薄い!」
感知役の声が飛ぶ。広間全体は無理だ。
なら「半径二メートル!」
即座に決める。
局所圧力場。広げすぎれば崩れる。だが、ここで躊躇っている暇はない。
魔力を流す。広間の右前方。崩れた騎士隊の隙間、その先。
空間を切り分ける。内と外。条件を定義する。
「補助!」
「乗せる!」
補助役の魔力が重なる。場の外縁が安定する。
一人では危うかった境界が、はっきりと立ち上がる。
「……今!」
前衛が踏み込む。場が反応する。
空間が押し返す。前衛の踏み込みが、異常領域の中でも沈まない。
「っ、らあ!」
剣が走る。速い。重い。
一体目の胴を斜めに断ち切る。
周囲が一瞬ざわつく。
「……今の」
後方の騎士が呟く。
だが、終わりじゃない。二体目が左から。
「左薄い!」
感知役の声。
「補正する!」
場の左端を少しだけ引き上げる。
難しい。複数条件の維持は、まだ安定しない。
魔力が軋む。視界の端が少し揺れる。
「無理するな!」
補助役の声。
「大丈夫だ」
短く返す。嘘ではない。まだ持つ。
「前衛、左!」
「見えてる!」
敵が踏み込む。今度は速い。だが、場の中だ。
一瞬だけ、空気の流れがこちらのルールに戻る。
前衛の剣が、敵の踏み込みより半拍早く届く。
二体目、沈黙。
三体目は、そこで初めて動きを止めた。
こちらを見ている。いや、観察している。
異常領域の中で、わずかに揺れた。
「……逃げる」
感知役が低く言う。
その通りだった。
三体目は、広間の奥へと滑るように後退する。
深追いは危険だ。
「追うな!」
先頭指揮官の声が飛ぶ。誰も逆らわない。
今の前線は、立て直しが先だ。広間に、重い息だけが残る。
負傷者の確認。隊列の再編。魔導士隊の再配置。
だが、その中で明らかに空気が変わっていた。
視線。騎士たちも、魔導士たちも、少しだけこちらを見ている。
「……やったな」
前衛が息を吐く。
「目立った」
「目立ちたくてやったわけじゃない」
そう返すが、意味は分かっている。
今のは、自分たちだけの戦闘じゃなかった。前線そのものを、立て直した。
「まだ先がある」
感知役が奥を見たまま言う。
広間のさらに先。暗い通路の奥。
そこから、何かが脈打つような違和感が伝わってくる。
深い。重い。規模が違う。
「……核か」
補助役が小さく言う。
否定できない。今まで感じた異常とは質が違う。
ただの敵じゃない。もっと大きな何かが、奥で動いている。
先頭指揮官がこちらへ歩いてくる。
短くこちらを見て、言う。
「助かった」
それだけ。だが、重みは十分だった。
「この先、さらに前線は崩れる」
続ける。
「お前たちが要だ」
重い言葉だ。
だが、今は妙な緊張はなかった。むしろ、静かに腹が据わっていく。
戦場は広い。敵は強い。異常は深い。
それでも。
「……行ける」
小さく呟く。
前よりも、ずっと明確に。
この戦場には、自分たちのやるべきことがある。
敵を倒すことじゃない。勝てる条件を、一つずつ奪い返すことだ。
広間の奥。暗闇の先で、何かがまた脈打った。
まるで、こちらを待っているように。




