【第十二章】第91話 戦場の拡大
出撃命令が出たのは、まだ夜明け前だった。
窓の外は群青色のまま、東の空だけがわずかに薄くなっている。王都の石畳は夜露を残し、街全体が静かな眠りの底にあるように見えた。
だが、その静けさは表面だけだった。
本部棟の前庭には、すでに人が集まり始めている。騎士隊、魔導士部隊、支援班、調査班。鎧の擦れる音、魔道具の起動音、低く交わされる確認の声。
普段なら訓練場の一角でしか見ない装備や術具が、今朝は当たり前のように並んでいた。これまでとは、規模が違う。
「……本気だな」
隣に立った前衛が、低く呟く。
「小隊の調査じゃない」
視線の先では、王国直属の重装騎士隊が隊列を組んでいた。
魔力障壁を展開する大型術具まで持ち込まれている。
あれは、本来なら国境防衛か大規模魔獣討伐でしか見ない代物だ。
「それだけ、余裕がないってこと」
補助役が静かに言う。
いつもの軽さはない。だが、怯えているわけでもない。ただ、現実をそのまま受け止めている声音だった。
感知役は少し離れた場所で、周囲の魔力の流れを見ていた。
人が増えれば、それだけ気配も濃くなる。だが、その中でもあいつの視線は、ずっと遠くを見ている。
深層だ。誰も口にしなくても分かる。
「集まれ」
低く通る声が前庭を横切る。責任者だった。
ざわめきが止まる。各部隊の視線が前へ集まる。
責任者は簡易の地図台の前に立ち、短く全体を見渡した。
「異常範囲は昨日時点でさらに拡大。深層中枢を中心に、上層方向へ断続的な環境変質が確認されている」
地図にいくつもの赤い印がある。以前より明らかに多い。
「今回の目的は二つ」
低く、明瞭な声。
「前線の維持。そして異常核の所在確認だ」
敵を倒す、ではない。核の確認。
それだけで、今回の作戦の難しさが分かる。
倒せるかどうかではなく、まず“辿り着けるか”の話なのだ。
「通常魔法の不全、暴発、伝播異常は想定済み。現場判断での撤退を許可する」
一瞬、空気がわずかに揺れる。
撤退を最初から許可する作戦など、そうそうない。
それだけ危険だということだ。
「各隊は役割を厳守しろ。無理をするな。勝手に前へ出るな」
最後の一言が、やけに重く響いた。
「特に」
責任者の視線が、こちらに向く。ほんの一瞬。
「異常対策班は、環境維持を最優先とする」
明言された。周囲の視線も少しだけこちらに流れる。
気まずさはない。ただ、自分たちの役割が、今までよりずっと重くなっているだけだ。
「……だとさ」
前衛が小さく肩を回す。
「偉くなったな」
軽口だが、声は落ち着いている。
「違う」
首を振る。
「責任が増えただけだ」
それが本音だった。
前は、自分たちが戦えればよかった。だが今は違う。
自分たちが戦えなければ、他の隊も崩れる。
局所の勝敗では済まない。戦場全体の流れに、自分の判断が影響する。
「そういう顔、似合わないよ」
補助役が横から言う。少しだけ笑っている。
「深刻そうにしても、結局やること変わらないでしょ」
「……まあな」
思わず苦笑する。
確かに、その通りだ。やることは変わらない。
見る。考える。組み立てる。必要な条件を作る。
ただ、それが少し広くなっただけだ。
「出発」
号令が響く。隊列が動き出す。
重装騎士の足音が石畳を鳴らし、魔導士隊の補助術具が淡く光る。
支援班が荷を運び、調査班が記録具を抱えて走る。
大きな流れだ。今まで見てきた小隊の動きとは違う。もっと複雑で、もっと脆い。
少しでも綻べば、一気に崩れる。
だからこそ。
「……行くぞ」
短く言う。三人が頷く。
王都を出る。朝日が昇り始める。
街道の先、遠くにダンジョンの外郭が見えてくる。巨大な口を開けたような黒い影。その奥に、今までよりもずっと深い異常が広がっている。
胸の奥が少しだけ重くなる。
怖くないわけじゃない。あの敗北は、まだ消えていない。
深層で何もできなかった感覚も、仲間を守りきれなかった後悔も、全部残っている。
だが、今は違う。あの時と同じまま、ここに立っているわけじゃない。
空気を使うだけだった自分は、もういない。
条件を見る。流れを作る。場を定義する。
戦える空間を、こちらから作りにいく。
その考えが、前よりもずっと身体に馴染んでいた。
ダンジョン入口前。部隊が最終確認のため一度止まる。
責任者が近づいてきた。
「少しいいか」
短い呼びかけ。
他の三人は少し距離を取る。
責任者は、こちらをまっすぐ見た。
「今回、お前の役目は敵を倒すことじゃない」
それは、予想していた言葉だった。
だが、その次が少し違った。
「戦える戦場を作れ」
短い。だが、それ以上に明確だった。
「部隊が前に出られる足場を。撤退するための余地を。生き残るための時間を」
一つずつ、言葉が落ちる。
「お前が作る条件次第で、今日の生死は変わる」
重い。だが、不思議と嫌じゃなかった。
これは期待だ。無茶な押しつけじゃない。
今の自分たちが、そこまで来たという証明だ。
「……分かりました」
短く答える。
責任者は一度だけ頷いた。
「無理はするな」
それだけ言って、背を向ける。
その背中を見送りながら、小さく息を吐く。
戦える戦場を作れ。それが、今回の役割。
敵を倒すことじゃない。勝つ条件を作ること。
胸の奥で、その言葉が静かに沈んでいく。
「何言われた?」
戻ってきた前衛が聞く。
「大したことじゃない」
そう返すと、前衛はすぐに嘘だと分かった顔をした。
「そういう時の顔、分かりやすいぞ」
「うるさい」
短く返す。
補助役がくすっと笑う。
感知役は、珍しく少しだけ口元を緩めた。
それだけで、少し肩の力が抜ける。
「行くか」
前衛が剣を軽く鳴らす。
「ああ」
視線を前に向ける。ダンジョンの奥。
深く、暗い異常の中心。そこには、今までの自分たちでは届かなかった場所がある。
だが、今は違う。戦うためじゃない。
届くために。その一歩を踏み出す。
朝日が背中を照らしていた。




