第90話 まだ知らない空気
旧採掘坑での訓練を終えてから二日後、本部棟の空気は妙に張っていた。
廊下を行き交う人の数が多い。普段は見かけない調査班の制服も混じっている。
足音が途切れず、扉の開閉音が短い間隔で続く。忙しさというより、何かを急いで共有しているような気配だった。
訓練場へ向かう途中で、その理由はすぐに分かった。
「来たか」
呼び止めたのは指揮官だった。いつもと同じ声色だが、少しだけ硬い。
「会議室だ。全員呼ばれてる」
何か起きた。四人で会議室に向かう。廊下を進む間、誰も余計なことは言わない。
ただ、それぞれが同じことを考えているのは分かった。
深層だ。あの場所に関する何か。
扉を開けると、すでに何人かが席についていた。調査班の責任者、王国側の技術担当、地質班の分析員。それに、以前より明らかに多い書類と図面。
机の中央には、ダンジョン深層の地図が広げられている。
「揃ったな」
責任者が顔を上げる。
「時間がない。結論から言う」
視線が地図に落ちる。
「深層の異常範囲が拡大している」
短いが、それだけで空気が変わった。
「拡大?」
補助役が眉を寄せる。
「前回確認された空間異常は、深層手前の一部だったはずでは」
「そのはずだった」
責任者は頷く。
「だが、三日前に別班が浅層寄りで類似現象を確認した」
地図の一点を指す。前回、自分たちが撤退した地点より、明らかに手前。
「範囲が広がってる」
感知役が低く言う。
「正確には」
技術担当が口を挟む。
「“広がっているように見える”」
その表現に、自然と意識が向く。
「どういう意味ですか」
問い返す。
技術担当は数枚の資料をめくり、こちらに向ける。
そこには、魔力濃度、気流の観測結果、音波の伝播率らしき数字が並んでいた。
「通常、自然環境で起こる異常には、一定の揺らぎがある」
静かな説明。
「時間によって変化し、場所によって濃淡が出る。完全な均一は、むしろ不自然だ」
言いたいことが、少しずつ見えてくる。
「でも、今回の異常は違う」
自然と口に出る。
技術担当が頷く。
「規則的だ」
その一言で、室内の空気がさらに重くなる。
「一定の範囲ごとに、性質が切り替わっている」
地図の複数箇所に印がつく。
「境界も、異様なほど綺麗だ」
自然現象ではありえない。
「つまり」
前衛が腕を組んだまま言う。
「誰かが、やってる?」
責任者は即答しなかった。
だが、その沈黙自体が答えに近かった。
「断定はできない」
慎重な口調。
「ただ、少なくとも自然発生だけでは説明しづらい」
言い換えれば、それに近い何かを疑っている。
「深層の敵と関係があると?」
感知役の問い。
「可能性は高い」
責任者は短く答える。
「環境そのものを変えているのか、異常を誘発しているのか。そこまでは不明だ」
あの空間は、ただの“特殊な場所”じゃない。
作られた戦場かもしれない。
「……なるほどな」
前衛が低く呟く。
「だから、あんなに綺麗に殺されかけたわけだ」
軽口に近い言い方だが、笑う者はいない。
それほど、状況は重い。
責任者がこちらを見る。
「お前たちの再構築はどこまで進んだ」
視線が集まる。
少しだけ息を吸う。
「局所的な圧力場なら、深層に近い条件でも成立します」
率直に答える。
「範囲は狭い。維持も短い。ですが、一瞬の突破口なら作れる」
「再現性は」
「前よりはある」
曖昧な答えにしたくなかった。
「でも、深層本番では足りません」
それが本音だ。ここで楽観を混ぜる理由はない。
責任者は黙って頷く。
「正直でいい」
それだけ言う。
「こちらも、無理に出撃させるつもりはない」
少しだけ、肩の力が抜ける。
だが、その次の言葉で空気が張り詰めた。
「ただし、時間はない」
地図のさらに奥を指す。深層の中心部。
「異常の発生源と思われる地点に、強い反応が出ている」
言葉は簡潔だった。だが、意味は重い。
「前回より?」
補助役が問う。
「比較にならない」
即答。
「今まで観測されたことのない規模だ」
会議室が静まり返る。
誰も、すぐには言葉を出せなかった。
あの敵ですら、深層の一部にすぎなかった。
そのさらに奥に、まだ何かある。
「……本命か」
前衛の声が、やけに静かに響く。
誰も否定しない。
「次の出撃は、強行ではない」
責任者が続ける。
「準備が整い次第、段階的に進める」
無茶はさせない。だが、止まってもいられない。
その線引きは明確だった。
会議は短時間で終わった。
必要以上に引き延ばしても意味がない。今必要なのは、各自がやるべきことを持ち帰ることだ。
会議室を出る。廊下の窓から、外の空が見えた。
青い。高い。風が流れている。自然な空気。自然な流れ。
そのはずなのに、以前とは見え方が違う。
「……考えてるな」
隣に来た前衛が言う。
視線は外のままだ。
「ああ」
短く返す。
「さっきの話?」
「それもある」
少しだけ間を置く。
「でも、もっと根本だ」
前衛は何も言わず、続きを待つ。
「今まで、俺は空気を“性質”として見てた」
流れるもの。圧縮できるもの。伝わるもの。
そういう理解だった。
「でも、あれは結果だ」
深層の異常も、今なら少し違って見える。
「空気は、ただあるわけじゃない」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「条件が揃って、初めてそうなる」
前衛が横目でこちらを見る。
「つまり?」
「まだ、知らない」
自分でも驚くほど、素直に出た言葉だった。
「空気のことを、まだ半分も分かってない」
圧力場は、その入口だ。だが、それだけじゃ届かない。
深層の異常を前にした時、必要になるのはもっと深い理解だ。
「……面倒な性格してるな」
前衛が鼻で笑う。
「少し戦えるようになったら、普通は喜ぶだろ」
「喜んでる」
そう返す。
「でも、それで終わったら、また同じになる」
あの敗北を、ただの通過点にしたくない。
勝てるかどうかじゃない。届くかどうかだ。
前衛は少しだけ黙ったあと、肩をすくめた。
「まあ、いい」
短く言う。
「お前が考えるなら、俺は斬るだけだ」
変わっていない。いや、前よりもずっと強く、繋がっている。
「……頼む」
小さく返す。
前衛は片手を軽く上げ、そのまま去っていった。
一人になる。窓際に立ち、外を見る。
風が吹く。木々が揺れる。遠くで鳥が飛ぶ。
当たり前の景色。だが、その中に、前より多くのものが見える気がした。
風はただ流れているんじゃない。
空間の形。温度。圧力。
無数の条件が重なって、初めて生まれる。
そして、その条件は、誰かが変えられるのかもしれない。
「……まだ知らない空気」
小さく呟く。
それは恐怖ではない。未知への感覚だ。
自分が知らない領域。だが、そこにこそ答えがある。
視線を上げる。空は高い。その先は見えない。
それでも。
「……行くしかない」
静かに、そう決める。
次の戦いは、今までで一番厳しい。
だが同時に、一番遠くへ届く戦いになる。
その予感だけが、確かに胸の奥で形を持っていた。




