第七話「香る薬舗、はじめの出会い」3
第七話「香る薬舗、はじめの出会い」は4分割で更新していきます。これは3つ目です。
仁澄が棚から材料を取り出し、春燕の前に並べていく。
「じゃあ、まずは簡単な健胃散から作ってみよう。配合は…これだ」
仁澄が作業台に配合表を置く。
春燕は真剣な顔で覗き込み、小さく頷いた。
「分量の計算はできるか?」
「はい。少しお時間いただければ…」
春燕は袖口にそっと手を差し入れ、小さな花梨のそろばんを取り出した。
淡く光を含んだ木肌は、何度も人の手で磨かれたように温かみがある。
春燕はそのそろばんをそっと両手に包み、指先で珠をなでるように触れた。
どんな時も、凌偉が肌身離さず使い続けていた大切なもの。
(……凌偉様が側にいてくれるみたい…)
ふっと微笑んで、春燕は珠を軽く弾き、静かな音を響かせながら計算を始める。
その様子は、慣れた書記官のように迷いがない。
珠の弾ける音が軽やかに室内に響いた。
そんな春燕を見ていた仁澄が、ぽつりと漏らす。
「随分と使い込まれたそろばんだな」
「こちらは…凌偉様からいただきました」
「はあ!? 凌偉様から!? 凌偉様のそろばんを!!?」
仁澄は思わず声を張り上げてしまい、慌てて口を押さえた。
(ちょ、ちょっと待て……この街の最大権力者から、
使い込まれたそろばんをもらうって……?
それって……めちゃくちゃ特別扱いじゃないか……!?)
春燕のことを “琳家の婚約者” と頭では理解していたが、
いま実感が押し寄せてきて心臓が落ち着かない。
(春燕様って……何者なんだ……本当に)
そんな仁澄の動揺など気づいていない春燕は、
珠を弾き終えると顔を上げた。
「仁澄様。分量、これでよろしいでしょうか?」
「あ、ああっ!うん!問題ない!全然!すごく正確だ!
あと、俺のことは仁澄でいい。様はいらない」
「わかりました。では、私のことも春燕と……」
「いや、春燕様と呼ばないと……命が危ない……」
思わず噛み気味の返答をしてしまい、仁澄は耳まで赤くなる。
(落ち着け俺……今日から来た、妹弟子が化け物級に優秀で、
しかも琳凌偉、直々の宝物持ってるとか……
そんなの聞いてないんだけど)
だがそれと同時に、胸の奥で密かに熱い闘志が灯る。
(……絶対、負けてられないな)
こうして春燕の、薬局での初めての調合作業が静かに始まった。
※作者より
「水月鏡花」の更新は【週3日/月・水・金 21時頃】です。
春燕と凌偉、それぞれの心の距離が、
少しずつ近づいていく時間を、
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