第七話「香る薬舗、はじめの出会い」2
第七話「香る薬舗」は4分割で更新していきます。これは2つ目です。
市が開く時刻が近づき、街路を行き交う人の声が少しずつ増えていく。
朝日が差し込みはじめた通りは、活気を取り戻したばかりの柔らかなざわめきに包まれていた。
三人は、淡い緑色の暖簾がふわりと揺れる薬局の前で足を止める。
「琳安堂」――木の扁額に刻まれたその名前は、不思議と落ち着いた温もりを感じさせた。
「着いたわ…」
春燕は胸の前でそっと手を揃え、深呼吸をする。
今日から働く場所。そう思うだけで、緊張と期待が
胸の奥でゆっくり混ざり合っていく。
令菘と志晃が一歩前に出て、
中に声をかけようとしたその時――。
「春燕様」
穏やかな声が店内から聞こえた。
現れたのは、どっしりとした安定感のある老人。
琳家の御用医家、周景修だった。
「景修様! 本日から、よろしくお願いいたします」
春燕が深く頭を下げると、袖の奥で花梨のそろばんが、心強くそっと揺れた。
「よくいらしてくださいました。さあ、どうぞ。二階へご案内しますよ」
景修に続いて店内に入ると、一階はすでに
穏やかな活気に包まれていた。
薬草の香りがほんのりと漂い、棚には乾物の瓶や丸薬、
生薬の束が整然と並ぶ。
その隙間を薬家たちが行き交い、開店直後とは思えないほど賑やかだ。
「春燕様、お足元気をつけて」
階段の前で令菘が声をかけ、志晃はさりげなく後ろを固める。
「ふふ…ありがとう」
少し照れたように笑って、春燕は細い木の階段を上っていった。
二階に着くと、すでに一人の若い男性が待っていた。
「この者は仁澄。私の親戚でして、
去年から見習いとして働いております」
「初めまして、春燕様。仁澄です。お話は伺っております」
爽やかな笑みと共に丁寧な挨拶が返される。
「春燕です。よろしくお願いします」
春燕もふわりと微笑み返した。
景修は二階の調合室を軽く示しながら説明を始める。
「一階は客の体調や要望に合わせ、その場で調合します。
二階では販売用の、あらかじめ決まった配合の薬を作ります。
春燕様には、慣れるまで二階で働いていただきます。いかがですかな?」
「はい! ありがとうございます。一生懸命、
務めさせていただきます」
きらきらした瞳で春燕が答えると、景修は満足げに頷き、
令菘と志晃を連れて階下へと戻っていった。
二階には、春燕と仁澄だけが残された。
「――お嬢様が、いい気なものだな」
先ほどの爽やかさが嘘のように、仁澄は急にぶっきらぼうな声になる。
「こっちは真剣に働いてるんだ。
お嬢様がなんでわざわざこんな所に来たんだよ」
春燕は一瞬だけ驚いたが、すぐに
「なるほど、これが素の口調なのね」と納得した。
「俺は兄弟子だからな。仕方ないから教えてやる」
文句を言いながらも、道具の場所や使い方を手短に、丁寧に教えるあたり、
どうやら面倒見が悪いわけではなさそうだ。
「一階に比べれば種類は少ないけど、ここも数は多い。
棚の場所は一つずつ覚えていけよ」
壁一面を埋め尽くす棚には、小さな引き出しがびっしりと並び、
生薬名が整然と記されている。
「わかりました」
春燕は真剣に頷く。
「春燕様は、薬学の勉強はしたことあるのか?」
「はい。母に教えてもらいました」
「薬学の書物は? 読んだことあるのか?」
「はい。『黄帝内経』『神農本草経』
『図経本草』『和剤局方』は読みました」
「……え?」
仁澄は間抜けな声を漏らした。
――どれも、まさに彼がいま一生懸命読み進めている書物だ。
「自分で持ってるのか?」
「いえ…今、手元になくて」
春燕は少しだけ視線を落とす。
母の遺した書物はすべて、父に不要と燃やされてしまったからだ。
「でも! 大丈夫です! 全て覚えていますので…」
気を悪くしないように明るく答えたつもりだったが――
「…全て…覚えて…る?」
仁澄は、にわかには信じられないといった表情で固まった。
しかし、春燕本人は嘘を言っているようには見えない。
「春燕様…。本当に真剣に薬学を学びにきたんだな」
「はい。薬学を学んで…母の意志を継ぐために来ました」
まっすぐな眼差しで答える春燕には、
迷いというものがまるでなかった。
その瞳には、ただ静かで強い意志だけが宿っていた。
――この子は、本気だ。
そう悟った瞬間、仁澄は自然と背筋を伸ばしていた。
「そうか。さっきは悪かった。早速仕事を始めよう」
「はい。よろしくお願いします」
短いやりとりだったが、仁澄の胸には確かな火がついた。
妹弟子の真剣さに触れ、仁澄もまた気合いを入れ直したのだった。
♢♢♢
『黄帝内経』
成立:戦国時代〜前漢(紀元前3〜1世紀頃)
内容:医学理論書。陰陽・五行・経絡・診断など。中医学の基礎理論。
『神農本草経』
成立:後漢頃(1〜2世紀)
内容:最古の本草書。365種の薬物を分類。
『図経本草』
成立:北宋・1061年頃
内容:薬物の図解付き本草書。
『和剤局方』
成立:北宋・1107年
内容:国家が編纂した処方集(実際に使う薬方)。
※作者より
「水月鏡花」の更新は【週3日/月・水・金 21時頃】です。
春燕と凌偉、それぞれの心の距離が、
少しずつ近づいていく時間を、
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