第25話 渚
目を開くとレティシアは何もない空間に横たわっていた。
違う、水があった。横を向くレティシアの口元まで浸かる水があるのに、苦しくないし何なら濡れてすらいない。浅い水面にレティシアの白銀の髪が広がり、起き上がった背中にサラリと流れた。
「ここは……?」
レティシアが呟くと辺り一面に炎が立ちのぼり、水面は火の海へと変わった。
短い悲鳴を上げて立ち上がったが、炎がレティシアを傷つけることはなく、熱いとさえ感じない。やがて炎は弱まり、なにも……先にあった水さえ残さずに消え去った。
――”私を誰だと思ってるの! 黙って言うことをききなさいよ!!”
急に風景が変わり、レティシアは自分の部屋に立っていた。
――”なんで閉じ込めるの! こんなの虐待だわ! ここから出せ!!”
次は見覚えのある地下室で、何かあるとレティシアはそこに閉じ込められていた。
――”ねえ、ノルマン。私欲しい物があるの。ふふふ”
姿は見えないのに、場所は移り変わり、自分の声だけが響く。
――”あの子生意気なのよ。遊んであげて”
笑い声と共に、レティシアの足元に宝石が散らばった。レティシアの記憶が正しければ、その宝石は亡き義母が身につけていたものだった。
「渚」
一度めは目を閉じた。
「渚!」
今度は彼女を探すように目を凝らした。
「渚、渚、渚っ………………、ごめんなさぃ」
パン! と頬を打たれた感覚に、レティシアは正面を向く。
目の前には瞳を揺らす膜が、今にも決壊しそうな黒髪の少女が立っていた。
「謝らないで……」
「なぎ」
「謝ったって許すもんか!!」
黒の瞳から雫がこぼれ、いつの間にかヒザ下を浸していた水面に円を描く。
「かえして……返してよ!! なんで私が、こんなこと、あんな……酷いこと」
「――……、、」
「許さない! 絶対に許してあげない!! 今、私の身体どうなってるの!? 学校は? 家族は? こんなに長い間……ねえ! 私の帰る場所はちゃんとあるの!」
「あります! みんな渚を待ってます!!」
「貴女の言うことなんか信じられない!」
「っ――――」
「なんで……なんで、私だったの……? なんで、私だけ、こんな……ひぅ」
両手で顔を覆い、渚が泣き崩れた。激しい声を上げるでもなく、嗚咽を漏らしすすり泣いている。
レティシアはとっさにその小さく丸まった背に覆いかぶさると、己に泣く資格はないと涙を堪えた。
「なんとか”赤テン”は回避しました! 貴女が戻った時に違う学年だったら許さないと、東雲さんと佐藤くんが一生懸命教えてくれました!!」
「――――――」
「お母様も、お父様も、毎朝起きてくるのが渚じゃなくて、それにがっかりして……。だから、私いつも先に、挨拶を、口調も、……まだ、戻れてませんって……。なのに、お二人共、か、隠して、いつも優しく笑って、くれました」
「――――――」
「……。た、拓海くんも、お姉ちゃんは”げえむ”が上手なのに、レティーさんは下手くそだねって……お姉ちゃんが帰ってきたら教えてもらいなよって」
「皆さん。貴女を愛している分だけ、私にも優しくしてくださいました」
まるで、縋るものがそれしかないように大切にしてくれた。
「だから、私は渚を元の世界に――貴女を待つ皆さんの元に、絶対にお返ししなくてはなりません」
蹲っている渚の背中がピクリと揺れた。
「信じられないと思います。貴女を巻き込んだ私を、憎いと、許せないと思います。けれど、渚には私しかいません」
チェリルの部屋の最後の記憶で、レティシアのペンダントが割れるのを見た。
「……怖いの」
渚がぽつりと呟く。
「私、ちゃんと戻れるかな? レティシアが戻ってきて、別の子の身体に飛ばされて、なのにその子はずっと自分の身体にいて……レティシアの時と違って。大丈夫かな? 私の身体、今どうなってるんだろう?」
「きっと無事です!」
「適当なこと言わないで!」
「では、怪我を治療出来る魔法石を持って行きましょう!」
「――?」
「帰り道が怖いと言うなら、私がいます! 一緒に行きましょう!」
「そんなこと出来るわけないじゃない」
「出来ますよ。たぶん?」
「たぶん?!」
「だって、ほら。今、こうして二人で居るのですから」
「けど……、そしたらレティシアの身体が……」
「問題ありません! ”シノビの者”は任務のためなら、手段を選ばないのです!」
「あんた忍びじゃないじゃん……」
「それに、私は約束を違えたくありませんので!」
「約束?」
「はい。渚のお祖母様と”指切りゲンサン”しました!」
「物騒!! それを言うなら指切り拳万でしょ!」
「そうです! 絶対に渚をお祖母様へお返しすると、指切りしたのです!!」
こうやって、とレティシアは自身の小指を差し出した。
「約束します。私は、何があっても渚を元の世界に戻します」
「…………」
「指切りしますよ?」
「…………ぅ、・・・!」
「わっ!」
バシャンと水が跳ね、レティシアは飛び込んできた渚を抱きとめ、再び満たされていた水に浸る。
もう足がつかないくらい地面が遠ざかり、なのに二人抱き合いプカプカと水面を漂う。レティシアの首に縋り付き、帰りたい、帰りたいと渚は声を荒げて泣いている。
しばらくレティシアはそんな渚の背を優しくさすり、水の流れに身を任せていた。ら、急に水がなくなり、レティシアは真っ白な地面に尻もちを突いた。
「私、帰る……ぐす」
「はい! では、一緒に」
「いい。一人で帰れる」
「駄目です! 私も着いて行きます!」
「大丈夫よ。……本当は、引っ張られてる感覚があって、それに逆らわなかったらいいと思うから」
そうなの? と微妙な表情を浮かべるレティシアに、渚は鼻をすする。
「あんた連れてっちゃうと、あのオニーサンちょー怖そうだもん。あんたごと引きずり戻されちゃうかも」
そうして、初めて渚が笑ってくれて、逆にレティシアの涙が溢れ出してしまった。
レティシアが泣いて良いわけがないのに、こすっても、まぶたをキツく閉じても雫は止まってくれなかった。
「じゃあ、そろそろ行くね」
「渚! お願っ……します! 私も、一緒に」
「大丈夫だからー。いっぱい愚痴って、ちょっとスッキリしたぁー」
「ですが……!」
「…………。レティシアが、私を助けようと必死になってくれてたの、ちゃんと見えてたよ」
「へ?」
渚はもう一度だけレティシアをぎゅぅっと抱きしめると、ポンっと地面を蹴って離れた。
「あーあ。レティシアが男の子だったら良かったのになぁー。そうしたら皆にも、超絶美少年に命がけで護られたって自慢出来たのにー」
「なぎっ! 待ってください!」
「バイバーイ」
「渚!」
追いかけようとして、身体が動かないことに気がついた。遠ざかっていく渚に、レティシアは必死に追い縋ろうとするも、一音の声すら出せない。
渚、渚、大丈夫だろうか。どうか、無事で、渚――。
レティシアの視界が白の光に包まれ、意識が遠のく。レティシアがそこから弾かれる寸前。光の向こう側に、病室で笑顔の家族に囲まれる渚を見た気がした。




