今、やるべき事
現見の部屋の香りが俺の肺をフローラルにして、二時間が経過した。俺達は話をする事なく、勉強をしていた。
「ねぇ、銛矢君。休憩しよう」
そう言って現見はオレンジ色のシャープペンの芯を、机の上に押し付け芯を収める。俺は現見の部屋に掛けてある、可愛らしい時計を確認しながら「そうだな」と言い現見に倣って、シャープペンの芯を収めた。
「んーっ! 頭使ったなぁ」
俺は大きく伸びをして、一気に脱力する。今まで緊張していた反動だろうか、背中の筋肉がピクピクと動く。
「何か話でもしようよ」
現見は大きな目をぱちぱちと瞬かせ、俺に否定をさせなかった。
「ああ、どんな話でもついていけるぜ。しかし、現見、今日は何だか、ずっとそわそわしてないか?」
「そ、そうかな? 気のせいだよ」
「何かを気にしている雰囲気というかなんというか」
「えー。あー。うー」
現見は腕を組みながら、上を見たり、下を見たりして視線が合わない。
「まあ、それは置いといてさ! 銛矢君に訊きたい事あるんだけど、訊いてもいい?」
「ああ、何でも訊いてくれよ」
ホッとしたように、現見は胸に手を当てる。なんとなく視線が現見の胸に集中していた事を悟られないよう、現見の顔を見る。
「銛矢君は、どこの大学目指しているの?」
「地元の国立。文学部かな」
「へぇ、文学部かぁ」
「現見はどこの大学に進むんだ? やっぱり、東京へ行くのか?」
「うん。そうだね。でも私立は考えてないかな」
現見は小さな八重歯を見せて、照れながら言った。本当に可愛いなぁ。思わず顔がにやけてしまう。
「っと、ちょい待ち。東京で、私立を抜きにして……。まさか! 現見、東大行くのか?」
「東京にも他に国立はあるでしょう? 東京歯科大学とか、東京外国語大学とか、一橋大とか……」
「で、答えは?」
「文科Ⅲ類」
「東大じゃねーか!」
「まあ、目標は高く、だよぉ」
俺に向かってブイサインを作り、人差し指と中指をくいくいと動かす現見の仕草が、とても女の子らしかった。
「やっぱりスゲぇな……現見。勉強出来て、委員長で、真面目で、皆に人気で、女の子らしくて……。とてもじゃないが、敵わない」
俺は両手を頭の後ろに回して、仰向けになる。天井は真っ白で、瞬きするとチカチカと目が痛かった。
「いきなりどうしたの? 銛矢君は私と競っているの?」
「いや、そうじゃない。そうじゃないんだ」
「そうだよね」
現見の表情は見えなかったが、言葉の調子から、彼女が暗い表情をしていると感づいた。俺は体を起こして、現見を見る。
「どうか、したのか? 現見」
「いや、何でも無いよ」
「そっか」
沈黙が苦手というわけでは無いが、俺はここで起きている沈黙に身を任せることが出来なかった。気が付くと、俺は口を開いていた。
「なぁ、現見。少し、質問したい」
「何かな?」
「もし、もしもだぞ? 現見はさ、いつも自分の近くにあったものが、突然なくなってたら……どんな気分だ」
現見は少し考えてから、真剣な口調で答えた。
「私は、哀しいよ。多分、いえ、きっと……哀しむんだと思う。辛いじゃない。何かを失うのって」
「そうだよな。哀しいよな……。でも、失わないと、失くさないといけない状況ってのもあるよな」
「んー、考え方が難しいね。例えば?」
「例えるなら、そうだな……。友達が、突然親の都合で海外へ行ってしまうってトコだ」
「随分と回りくどい考え方だね。銛矢君らしくないね」
「俺らしく、無い……か」
現見の部屋の天井を見つめるが、俺は何か違うものを見つめている気分だった。
「ジルちゃんの事で悩んでいるんでしょ」
俺は驚きのあまり言葉を失う。何故女の子はこんなにも勘が鋭いのだろうか。
「……!? ……ああ。なんで分かるんだ? 現見はメンタリストか何かなのか?」
「そんな大層な職業には就けないと思うけれど、簡単な心理学なら心得てるから」
「やっぱり、敵わねぇな」
俺はもう一度上を向き、右手の甲を額に乗せる。現見は目を細めて薄く笑った。その後、間髪入れずに真面目な疑問が俺にぶつけられる。
「ジルちゃん、どうかしたの……?」
俺は目を閉じ、少し考えてから口を開いた。
「ああ、まぁ……な」
「何があったのよ」
「いや……。えぇと、その……」
「ゆっくりでいいよ。落ち着いて」
「ううー。うーん。--やっぱり……言えない! すまない! 現見っ!」
俺は立ち上がり、現見の部屋を飛び出した。飛び出して、走る。走った。とにかく、走った。
勉強は大事だが、今俺が考えなくちゃならない事は何か。分かり切ったことだ。
俺はジルを助けなくちゃならないんだ。