乳話(チチトーク)
文化祭前の最終チェックを、代表者である現見のかわりに俺がやる羽目になった。
「ああーー。しんどかった」
「そういうなって、海。ほれ」
一人で教室の机につっぷしていた俺の頬に、ジュースを押し当てて来たのは楠宮だった。
「ん、サンキュな楠宮」
プシュっと缶のフタを開けて一口飲んだ。「すっきりサイダー」というしょぼい名前のサイダーだったが、疲れた体に炭酸は効いた。
「急に大変な役をまかされたな。まっ、海は目立ちたがり屋さんだから仕方ないか。それより、そろそろ二人も回復したんじゃないか? 保健室へ行ってみようぜ」
楠宮に「目立ちたがり屋さん」とか言われたくないな。忌々しいことこの上ない。
しかし、トイレで倒れた二人への気遣いができるというのが、認めたくはないがこいつがまあまあ女子に人気のある所以だろうな。
そんなことを思いながら、楠宮と階段を降り、保健室へ向かう。階段を降りながら楠宮は後ろにいる俺に振り返らずに言った。
「なあ、海」
いつになくシリアスな重みのある口調に一瞬、俺は驚きを隠せずにいた。楠宮は俺に構わず、話と歩みを続ける。
「ジルちゃん……けっこう貧乳だよな」
「はあ!?」
俺は階段から転げ落ちそうになるが、辛うじて手すりをつかむ事ができたので一命を取り留める事ができた。
楠宮は俺の方を振り返ってニヤニヤしていた。
「お前、最低だな」
「トイレに侵入して、カラダの自由を奪われた女子二人を襲っていた奴の台詞かよ」
「断じて違う! 人助けだ。しかし、何でそんな話を今するんだ?」
楠宮は俺の本気の疑問に大きくため息を吐く。やれやれ、と言いながら腕組みしていた腕を解き、人差し指で俺を指しながら言った。
「男が二人で話す事といったら『女の話』か『金の話』が相場だろう?」
「…………」
どんな相場だよ。お前の株価は大暴落だ。
「ま、深く考えんなって。ほら、よく言うだろ? 長いモノには任せろって」
「へぇ、何を任せようか迷うな」
正しくは「巻かれろ」だけれどな。
楠宮は歩みを再開し、二階と三階の間の踊り場を広く使ってターンし、俺の方を向いて言った。
「乳の話は楽しいだろう? 時間があっという間に過ぎてしまうんだぜ。知ってたか?」
「知らねえよ」
知らないと言ったものの、これはアインシュタインの相対性理論みたいなモノだろう。楽しいことしてると時間が過ぎるのが早く感じられるってえのはよく言われるし。
しかし、楠宮に「相対性理論」を語っても仕方ないだろうなと思いながら、俺は楠宮に追いつくため階段を降りる。
「ううむ、しかしな海、不思議なもんで事実そうなんだよ」
「立証出来るのか?」
「当たり前だろ? 根拠のない理屈は屁理屈だからな。うしし」
不気味な笑いだ。
まあ、無言ってえのも寂しいし少し付き合ってやろう。
「面白そうだな。立証してみろよ」
「おお、あれはテストの時間だった。俺ってテスト苦手だろ? だから開始五分で暇しちゃうわけよ。だから、前の席の女の子の背中を眺めていたんだ。なんとなーく、なんの気なしに、だ。その女の子はテスト受けてたから、こう、前のめりになるよな? んで、背中のブラがくっきりと、こう」
背中に手を回しながら、前のめりになっている楠宮は酷く滑稽だった。
「浮かび上がっていたわけだな」
「そそっ。そいで俺は考えたんだ。『乳バンド』はなぜ存在するのか、と」
「『乳バンド』言うな」
昭和臭い感じがするぞ、楠宮。
楠宮は俺のツッコミを無視して話を続ける。
「それで……だ。俺はブラから連想して乳の、つまりおっぱいの事について思いを馳せた」
「ありていに言い過ぎだろ!」
「俺は考えた。大きさ、形、揺れ具合、どれを優先するのが俺の乳道なのかを。そして、ついに俺は見つけてしまった!」
「おい、それって……まさか」
俺は生唾を飲み込んだ。
こいつが、モテるのに彼女を作らない理由。というか、こいつは自分の乳道なるわけの分からない道に従って行動していたのだ。
楠宮は両腕を大きく広げながら言った。
「道玄坂あずみさんだ!」
おっふ……。
まぁ、あずみさん巨乳だからな。
「お前の生き方にケチつけるつもりはないけどな、楠宮……。女は乳で測れないと思うぞ」
なかなかカッコいい事を自分でも言った様な気分になり自己陶酔してしまう。
……と。保健室に到着か。
「なっ? 到着が早いだろ? おっぱいの話は時間を飛び越えるんだぜ。悔しいが今日の乳話はここで終了だな」
「…………」
俺はできればそんなトークしたくない。
性壁をひけらかして楽しいのだろうか?
俺は楠宮を無視して保健室のドアを開けた。
「あっ! 銛矢君、楠宮君。迷惑かけちゃって本当にゴメンね。ありがとう」
ドアを開けてすぐ現見は俺たちに向けて言った。
なんだ、もう回復していたのか。現見の美しい寝顔が見れるかと思っていたのだが……残念だ。
「寝てなくていいのか? 現見」
「大丈夫だよ。単なる過呼吸」
「そっか」
現見はニコニコしながら俺と話していたが、すぐに表情を変えながら言った。
「私の事はいいのよ。ジルちゃん、まだ気分悪いみたいなの。どうしたのかしら」
「多分テンション上げ過ぎたんだよ。遠足の前日の子供みたいなモノだろ」
「そうかなー。じゃあ、大丈夫なのね? 良かった~」
現見は「はああ」と胸に手を当ててホッとした様子だった。全くどんな仕草をさせても最高に可愛いな現見は。
「ところで、私の代わりに文化祭最終チェックしてくれたんでしょ? ありがとね。銛矢君」
「おお、最終チェックと言っても事実あまりする事は無かったよ。大きな変更も、トラブルも、無かった」
だけど人前に立つ事に異常に緊張してしまって疲れた、とは現見には言わない事にした。
すると、カーテンで締め切られたスペースからジルの声が聞こえた。
「きょーーこぉーーちゃーーーー」
「うわわわ。エチケット袋、エチケット袋っと」
現見は適当な大きさのビニール袋を見つけると、ビニール袋の中に丁寧に折られた新聞紙の袋をいれた。
「おい、現見。逆、逆」
「え? ああっ!」
気づいてくれたか。
現見は、保険医の先生の机に置いてあるマジックを手に取り、ビニール袋に「エチケット」と書いた。
「これで良しっ!」
「良くねえよ! 現見、ビニール袋は紙袋の中に入れるんだ」
「おお! そうだったかも。気が動転していたよ。ありがとう銛矢君」
そういいながらジルがいるであろう区切られた空間へ現見は姿を消した。
「…………」
現見の天然具合がたまらなく可愛いなあなどと思っていると、楠宮が後ろからそっと囁いた。
「……ときめいたか?」
「ああ、ずっと、な」
「ちなみにだが現見のバストはーー」
「やめろ」
乳話はもういいんだよ。
女子がいるのに危険な話をしようとするなよ。忌々しい。
少しして、現見が戻って来て俺たちに言った。
「ジルちゃんもう少し横になっておくって。どうする?」
俺と楠宮は互いにアイコンタクトを交わし、頷き、二人同時に現見に言った。
「じゃあ帰る」
「当然待つさ」
「あれれ? アイコンタクトして、頷いた意味は?」
現見は困惑した様子で俺たち言った。
俺たちは見事なまでに通じ合っていなかったようだ。
結局、ジルの回復を待ち、俺たちは四人で学校を出た。ついに明日は文化祭ーー藤峰祭である。
何もなければ良いのだけれど。