気づかないうちに、すべてが変わってしまった。
4月12日(月)
玄関のチャイムが鳴る。
斎藤は静かに玄関で待っていた。
「おはようございます、石上さん。咲さんと新さんは、準備できていますか?」
斎藤はいつものように落ち着いた様子だった。
「おはよう、斎藤くん。ええ、もう準備できていますよ。」
「朝ごはんありがとう、お母さん。」
「もう行かなきゃ。」
僕は、何も言えなかった。
「咲、お兄ちゃん、すごく静かだね。」
斎藤は心配そうな声で、いつもの僕ではないことに気づいていた。
「ねえ、斎藤、どうして咲に聞くの?」
「おい、態度が変わったな。」
斎藤はその変化に気づいていた。
「前はもっと俺に心を開いてくれたのに、今は口数が少ないな。」
「大丈夫だよ、親友。」
僕は短く答える。
……問題はない。
そう判断している。
――はずだ。
靴紐を結ぶ。
いつも通りの動作。
……だが、
わずかに、ずれる。
「ねえ斎藤、実はさ、お兄ちゃん、幽霊の夢見たらしくてさ、日曜日ちょっと様子おかしかったんだよ。ハハハ。」
【ハル】
バスに乗る。
珍しく、ぼんやりしていた。
「やあ、ハル。」
「……ハル、着くよ!」
アカリが声を上げる。
「あ……アカリ?どうしたの?」
「やあじゃないでしょ。ちびっ子、さっきからずっとぼーっとしてるよ。」
【ハル】
石上は、ベンチに座っている。
……どうすればいいんだろう。
何もなかったふりをするべき?
もし、何か言ったら――
みんなに、気づかれてしまう。
私は何も言わずに、自分の席へ向かった。
【アラタ】
……ほら、
彼女が、いる。
静かに、近づいてくる。
ベンチに座るのを見た。
――見たはずなのに、
まだ、夢の感覚が消えない。
現実なのか、
判断がつかない。
僕は、うっかりミスをした。
鉛筆が、彼女のそばに落ちた。
拾おうとして、かがむ。
――その瞬間、
わずかに、彼女の脚に触れてしまった。
「……」
まずい。
だが、
拾ってほしいと頼めば――
誤解される可能性がある。
意図的だと、
判断されかねない。
……仕方ない。
最初の前提を、破るしかない。
鉛筆を拾おうとして、身をかがめた。
そのとき――
不意に、彼女の脚に触れてしまう。
「ごめん、花田。」
「……大丈夫。気にしないで。」
花田は、わずかに動揺していた。
【アラタ】
触れたはずの一瞬が、
なぜか、消えない。
柔らかさだけが、
切り取られたように残っている。
【ハル】
(……なに、今の!?)
(どうして……こんなに……)
胸の奥が、落ち着かない。
理由なんて、
わからないのに。
【アラタ
変わったのか、疑問。
日曜日と、
何かが違う。
ほんの――
感覚が、ずれている。
落ち着いているはずなのに、
完全ではない。
説明がつかない。
【ハル】
休憩時間、二回目。
「ハル、顔変わったね。」
アカリが少し驚いたように言う。
「え?どう変わったの!?」
「スクロールまで、バスの中では上の空だったのに……今は、ちょっと戸惑ってる顔してる。」
触れたのは、一瞬。
だが――
変化は、
まだ続いている。
4月13日(火)
【アラタ】
校舎に入る。
「石上。二階、4D教室へ行け。数学オリンピックの参加者は、全員そこだ。」
「……はい。」
すぐに向かう。
封筒を受け取る。
中には、問題が八問。
次の段階へ進むには、
六問以上の正解が必要。
制限時間は、二時間。
――余裕のはずだ。
だが、
わずかな違和感が、残っている。
この練習問題をやってみましょう。
電車には200人が乗っています。
最初の駅で45人が乗車し、78人が降車しました。
2番目の駅で35人が降車し、45人が花田さんと一緒に乗車しました。
3番目の駅で100人が降車し、54人が乗車しました。
4番目の駅で70人が降車し、85人が乗車しました。花田さんはまだ乗車しています。
電車は何駅に停車しましたか? 花田ハルさんと一緒に4駅停車しました。
8問、解き終えた。
答案を提出し、
休憩に入る。
その時――
電車が、4駅に停車した。
花田さんは、まだ乗っている。
……しまった。
もう遅い。
なんて、
大きなミスだ。
___________
【ハル】
ベンチに座っていると、
胸が、なんとなくざわつく。
何なのか、わからない。
その時――
「石上先生、まだ来ていないようですね」
高木先生が言う。
「体調でも崩されたのでしょうか?」
別の先生が、少し心配そうに続けた。
「石上先生は、数学オリンピックの予選に出ているんですよ」
物理の先生の声。
その瞬間――
ほっとした。
黒板に書かれた式を見つめる。
(距離……?)
先生の声が、
少し遠くなる。
(距離が離れるほど、力は弱くなる……)
チョークの音が響く。
でも――
(じゃあ、どうして……)
胸の奥が、
こんなに落ち着かないの?
ふと、
視線が横に流れる。
石上くん。
少し離れた席。
(そんなに、遠くないのに……!)
黒板の前に立つ自分を、
一瞬、想像する。
チョークを持つ手が、
少し震える。
(距離は……)
(えっと……)
言葉が、詰まる。
頭の中で、
別の何かがよぎる。
――石上くん。
(……っ!)
(ダメ……!)
みんなの前で、
名前を出してしまったら――
最悪だ。
顔が、熱くなる。
(言わないで……)
(言ったら……)
(名前、出ちゃう……!)
――その時。
チャイムが鳴った。
(……助かった。)
最初の休み時間
【アラタ】
図書館に直行する。
こんな状態じゃ、
休み時間に外には出られない。
まるで、
思考のループに囚われているみたいだ。
このままだと、
誰かに気づかれる。
目を閉じる。
深呼吸。
「……静かだ。」
よかった。
_____________
【ハル】
(……友達、探そう。)
(少し、気を紛らわせないと……)
「あ、アカリ。」
「部活、もう決めた?」
「うん。演劇部と、バレー部に入ったよ。」
「ほんと?よかった!」
「じゃあ、バレー部で一緒だね。」
「美術部にも入ったよ。」
【アラタ】
今日は、卓球部の日。
何かが起こりそうな気がする。
「先輩、タケシ。こんにちは。」
「あまり得意じゃないんです。」
「大丈夫。そのうち好きになるよ。」
ラケットの音が響く中――
ふと、
視線が動く。
廊下の向こう。
彼女が通り過ぎるのが見えた。
(……花田?)
電車に乗っていたはずなのに――?
そのイメージが、
頭の中で、
鮮明に浮かぶ。
――電車の中。
5号車。
25番席。
通路側。
すぐ隣に、
花田がいる。
(……まだ、いる。)
「石上!」
一瞬、
現実に戻った。
(……今のは、何だったんだ?)
断片的なイメージが、
頭の中に残る。
まだ形にならない、
どこか不確かな感覚。
タケシの声が、
はっきりと響く。
【ハル】
(美術部へ向かう途中)
(……今の声。)
足が、
一瞬だけ止まる。
でも――
目をそらす。
見てはいけない気がした。
それでも、
一瞬だけ、
見えてしまう。
石上くん。
――別の女の子と一緒にいる。
――背中。
石上くんが、
別の女の子と並んでいる。
そのまま、
歩いていく。
遠ざかっていく。
どんどん、
遠ざかっていく。
胸に、
ぽっかりと穴が開いたみたい。
(……っ)
そのまま、
歩き続ける。
なのに、
距離が、
どんどん遠く感じる。
距離は、どんどん遠くなっていく。
(……おかしい。)
(どうして、こんなに。)
胸の奥が、
静かに揺れる。
足取りが、
少しだけ乱れる。
それでも、
止まらない。
【アラタ】
解けない。
今日の、
この方程式。
まだ、
何も終わっていないのに――
_ _ _ _ _
【ハル】
胸に、
ぽっかりと空いた穴が、
まだ残っている。
終わったはずなのに、
消えない。
苦しい感情だけが、
残っている。
まだ、
何も終わっていないのに――




