1.7
通路は、やがて大きな扉の前で終わっていた。
厚い黒鉄の扉。装飾はほとんどない。
ただ、中央に刻まれた紋章だけが異様だった。
見たことのない形。角のような曲線と、王冠のような紋様が絡み合っている。
魔王の紋章。
リュナは、その扉を見上げた。
胸が、ざわつく。
(……ここ)
ここを越えれば終わる。
魔王を倒す。それで全部終わる。
――そのはずなのに。
足が止まった。
「……リュナ?」
アレンが静かに声をかける。
リュナは扉に手を伸ばしかけて、止めた。
「ねえ、アレン」
「どうした?」
少し間があった。
「……もし」
リュナの声は小さかった。
「もし、私が……」
言葉が続かない。
胸の奥に、妙な感覚が広がる。
怖いわけじゃない。
でも。
ここに来るべきじゃなかったような。
それでいて、ずっとここに帰りたかったような。
そんな、矛盾した感覚。
「……私が、間違ってたら」
ようやく出た言葉は、それだった。
アレンの目がわずかに細くなる。
「間違うって、何が?」
リュナは少し困ったように笑った。
「わからない。でも……」
扉を見上げる。
「ここに来てから、ずっと変なの」
胸に手を当てる。
「懐かしいって思ったり、怖いって思ったり」
少し俯く。
「私、勇者なのにね」
アレンは答えなかった。胸の奥が重く沈む。
――知っている。
その違和感の正体を。
この城は彼女の「敵」じゃない。
本当は。
彼女の――
「アレン?」
名前を呼ばれて、思考を止める。
リュナが振り向いていた。少し不安そうな顔。それでも笑おうとしている。
「変なこと言ってごめん」
アレンは首を振った。
「いや。勇者だって迷うさ」
短く、でもはっきりと言う。
「それでも進むから勇者なんだ」
リュナは一瞬驚いた顔をして、それから少し安心したように笑った。
「……そっか」
そして剣を握り直す。
「じゃあ、進もう」
扉に手をかけた。
その時だった。
城の奥から、かすかな声が聞こえた。
――リュナ。
リュナの体が止まる。
「……え?」
今の。確かに聞こえた。
「どうした?」
アレンが聞く。
リュナは首を振る。
「今……」
言いかけて、やめた。
(気のせい、だよね)
こんなところで、自分の名前を呼ぶ声が聞こえるはずがない。
「……なんでもない」
リュナは扉を押した。
重い音を立てて、扉がゆっくり開く。
その隙間から、玉座の間の暗闇が見えた。
アレンは、その背中を見つめる。拳を握る。
(……ごめん)
心の中で呟く。
これから彼女に見せるもの。
それは、真実じゃない。
――幻覚だ。
でも。
妹を救うためには。
リュナは振り返った。
「行くよ、アレン」
その笑顔は、何も知らない。
アレンは静かにうなずいた。
「ああ」
二人は、玉座の間へ足を踏み入れた。
◇
広大な玉座の間。
天井は高く、黒い柱が幾重にも並んでいる。
灯りは少なく、奥へ行くほど闇が濃い。
その中心。
玉座に、魔王が座していた。
赤黒い角。
鋭く光る瞳。
そして、空間そのものを押し潰すような魔力。
ただそこに座っているだけで、この城すべてを支配していると分かる。
「来たか……人間の勇者よ」
低く、重い声が響いた。
空気が震える。
リュナは剣を抜く。
(倒さなきゃ)
それしか考えられなかった。
一歩踏み出そうとした時、アレンが前に出る。
「リュナ、俺が――」
その瞬間だった。
魔王の視線が、まっすぐアレンを射抜く。
「……邪魔だ」
次の瞬間。
黒い影が走った。
「……っ!?」
アレンの体が宙に浮く。
何が起きたのか、誰にも分からなかった。
鈍い衝撃音。
そして――血の匂い。
魔王の腕が、アレンの胸を貫いていた。
時間が止まる。
アレンの体が、ゆっくりと引き抜かれる。
そして、床に落ちた。
赤い血が、石畳の上に広がっていく。
「……ア、レン……?」
声が震える。
足が動かない。
「嘘……だよね……?」
目の前の光景が、理解できない。
魔王が静かに立ち上がる。
「感情に縋るとは……人間は脆い」
その言葉が、引き金だった。
――何かが、切れた。
「……殺す」
声は、驚くほど静かだった。
リュナの中で、記憶が溢れ出す。
剣を通して流れ込む、歴代勇者の戦い。
斬撃。
回避。
踏み込み。
戦い方が、体に重なっていく。
……だが。
それだけじゃない。
知らないはずの景色。
知らないはずの声。
知らないはずの温もり。
「……あ……」
頭の奥で何かが弾ける。
体が勝手に動く。
踏み込む。
剣が走る。
魔王の一撃をかわし、反撃する。
金属の衝突音が玉座の間に響く。
「……ほう」
魔王の瞳が細くなる。
「この力……」
再び激突。
床が砕け、柱が震える。
それでもリュナは止まらない。
剣が閃く。
魔王の肩を斬る。
「なぜ……ここまで……!」
魔王の声に、初めて焦りが混じった。
そして。
互いに、最後の一撃を放つ。
剣が振り下ろされる瞬間。
魔王の瞳が、大きく見開かれた。
「……まさか……」
声が震える。
信じられないものを見る目。
「……リュナ……?」
――知っている名前。
その瞬間。
魔王の動きが、止まった。
剣は止まらない。
刃が、魔王の体を貫く。
同時に。
リュナの手が、魔王に触れた。
その瞬間。
記憶が流れ込む。
幼い声。
小さな手。
泣き叫ぶ子供。
そして。
娘を失った魔王。
何百年も探し続けた日々。
人間の国への侵攻。
破壊。
すべては――
娘を取り戻すためだった。
「……あ……ああ……」
リュナの手が震える。
魔王は、微笑んでいた。
「……やっと……会えた……」
その体が、ゆっくり崩れる。
玉座の間に、静寂が落ちた。
リュナは立ち尽くす。
足元には。
アレンの亡骸。
そして。
魔王――父の死。
「……アレン……」
呼んでも、返事はない。
胸の奥が、空っぽだった。
その時だった。
リュナの中で、何かが完全に目覚める。
額から、角が伸びる。
魔力が溢れ出す。
城の空気が震える。
「……全部……」
声が、静かに響く。
「全部、壊してしまえば……」
誰も、失わなくて済む。
そう思ってしまった。
玉座の間には。
新しい魔王が、立っていた。
その名を――
まだ誰も知らない。




