1.5
空気が、変わっていた。
平原を抜け、黒い山脈が近づくにつれて風の匂いが変わる。
草の青さは薄れ、土は赤黒く、空まで重たく沈んでいるようだった。
「……もうすぐで、魔王城が見える距離だ」
ガルドが低く言った。
その声に、私は小さくうなずく。
気づけば、剣の柄を握る手に力が入っていた。
怖い、わけじゃない。
――でも、落ち着かない。
胸の奥で、理由のないざわつきが小さく脈打っている。
「リュナ、大丈夫?」
隣を歩くレイナが、少し身をかがめて顔をのぞき込んできた。
長い耳がわずかに揺れる。
「うん。平気」
私は笑って答える。
そのまま、ふと後ろを見る。
少し離れた場所を、アレンが歩いていた。
剣に手をかけたまま、周囲を静かに警戒している。
(……アレンが、遠い)
そう思った瞬間、胸がきゅっと締めつけられた。
――違う。
そんなことを考える必要はない。
彼はいつも、ちゃんと見ていてくれる。
それでいい。
それなのに。
どうしてだろう。
胸の奥のざわつきは、消えてくれなかった。
やがて。
黒い岩山の奥に――それは見えた。
空を切り裂くようにそびえ立つ、巨大な城。
魔王城。
「……見えたな」
ガルドが呟く。
誰も答えなかった。
風が、冷たい。
――あそこに、すべてがある。
国の目的。
妹の命。
そして……
リュナの“真実”。
(……ここまで来たか)
アレンは無意識に息を吐いた。
足が、わずかに重い。
今さら引き返せないことくらい分かっている。
それでも、思考だけが前に進もうとしない。
視線を上げる。
少し前を歩くリュナ。
剣を持つ手に迷いはなく、背筋はまっすぐ。
誰よりも勇者らしい背中。
……それが、痛い。
(お前が魔王の娘だなんて)
誰が信じる。
俺自身ですら――信じたくない。
いや。
違う。
知ってしまっているからこそ、怖い。
その時だった。
ゴゴゴッ――
地鳴りのような振動が足元を揺らす。
「――来る!」
アレンが叫んだ。
次の瞬間、大地が割れる。
そこから現れたのは、今まで戦ってきた魔族とは明らかに違う存在だった。
巨大な体。
黒い外殻。
岩のような腕。
「……城の番兵か」
ガルドが低く唸る。
「三体!」
レイナが素早く数えた。
「ガルド、前!」
「任せろォ!」
盾を構え、ガルドが地面を踏みしめる。
魔族が咆哮した。
――その前に、リュナが一歩踏み出す。
剣に触れた瞬間。
記憶が、溢れた。
◇
歴代の勇者たち。
数えきれない戦い。
魔族を斬り伏せてきた剣の記憶。
(……分かる)
敵の動き。
踏み込みの癖。
次に来る攻撃。
世界が、ゆっくりになる。
「――はぁっ!」
踏み込み。
一閃。
刃が正確に外殻の隙間を裂く。
魔族が崩れ落ちた。
「……速い」
ミラが小さく息を呑む。
二体目が襲いかかる。
リュナは体をひねりながら剣を振るい、関節部を断ち切った。
――迷いはない。
強い。
私は、確かに強い。
なのに。
最後の一体と視線が合った瞬間。
胸が、強く跳ねた。
魔族の――赤い瞳。
なぜか。
懐かしく見えた。
「……っ!?」
一瞬、体が止まる。
「リュナ!」
アレンの声が飛ぶ。
その声を聞いた瞬間。
体が、反射のように動いた。
斬る。
魔族が倒れ、地面を揺らす。
……静寂。
アレンは静かに息を吐いた。
今の一瞬。
確かに見えた。
リュナの迷い。
あれは恐怖じゃない。
拒絶でもない。
(共鳴……。どこか魔族間での通じ合い、戸惑い。)
分かってしまう。
彼女は魔族を敵としてしか知らない。
それでも、どこかで――
同じ存在だと感じ始めている。
……まずい。
幻覚は完璧じゃない。
魔王城に近づくほど、綻びは増える。
(……もう時間がない)
妹の顔が浮かぶ。
それでも。
アレンはいつもの顔を作った。
「……よくやったな、リュナ」
声をかける。
穏やかに。
いつも通りに。
リュナが振り返る。
少しだけ安心したように、微笑んだ。
その笑顔が――胸を抉る。
◇
夜。
焚き火を囲み、私たちは静かに休んでいた。
遠くには黒い城影。
魔王城。
「……明日には着くね」
レイナがぽつりと言う。
誰も答えなかった。
私は膝の上の剣を見る。
触れれば分かる。
戦い方も。
勝ち方も。
なのに。
「……アレン」
名前を呼ぶ。
彼はすぐ顔を上げた。
「ん?」
私は少しだけ迷ってから言う。
「もし……私が間違ってたら」
言葉が、止まる。
何を言おうとしたのか。
自分でも分からなかった。
アレンは一瞬だけ目を伏せる。
そして。
微笑んだ。
「大丈夫」
短く、はっきりと。
「君は間違わない」
その言葉を聞いて。
リュナの胸は、少し軽くなった。
……それでいいはずなのに。
焚き火の向こう。
魔王城の影が揺れる。
まるで、こちらを見ているように。
(……何かが、待ってる)
理由は分からない。
でも、確信だけがあった。
この先で。
私は、何かを失う。
そして――
アレンは焚き火の影の中で、静かに拳を握りしめていた。




