2.55
王都の城壁は、朝日に照らされて白く浮かび上がっていた。
高く、厚く、長い。
何百年も外敵を拒んできた象徴。
その前で、列は自然と速度を落とす。
誰も指示していないのに、足並みが緩む。
緊張が、ゆっくりと空気に混ざる。
リュナは立ち止まらなかった。
門の正面ではなく、少し手前で足を止める。
それだけで、後ろの列も止まる。
静寂。
城壁の上に兵が並ぶ。
弓を構えてはいない。
だが手は届く位置にある。
ざわめきが広がる。
「……魔王だ」
「勇者が……いる」
「死んだはずじゃ」
噂が、目撃へと変わる瞬間。
城壁の中央、王の旗の下に一人の影が現れる。
国王。
豪奢な外套。
だが、その足取りはわずかに重い。
彼は城壁の上から、下を見下ろした。
見えるのは軍勢ではない。
整列も、号令もない。
混ざり合った人影。
魔族の角の隣に、人間の帽子。
幼子を抱く魔族の女の隣に、人間の老夫婦。
そして、先頭に立つ七人。
その中央に、リュナ。
隣に、アレン。
国王の喉がわずかに鳴る。
「……なぜ並んでいる」
誰に問うでもなく、こぼれる声。
城門の前で、リュナが一歩進み出る。
武器は持っている。
だが構えない。
魔力も抑えている。
声を張り上げるでもなく、
しかし確実に届く声で言う。
「国王」
城壁の上の視線が集まる。
「今日は、戦いに来たのではない」
ざわめき。
「では何だ!」
国王の声が鋭く落ちる。
リュナは答える。
「終わらせに来た」
短い言葉。
だが城壁の上の兵たちの間に、波のように広がる。
アレンが前へ出る。
「俺は、生きている」
ざわめきが強まる。
「勇者は死んだと、あなたは言った」
国王の顔が強張る。
「だが、俺はここにいる」
その事実が、何より雄弁だった。
「戦争は終わらないと、あなたは言った」
アレンの声は穏やかだ。
「終わらせたくなかったのは、誰だ?」
空気が凍る。
兵たちが互いに目を合わせる。
国王は一歩前へ出る。
「貴様らがいる限り、争いは消えぬ!」
叫びに近い。
「魔族が存在する限り、恐怖は消えぬ!」
その言葉に、後方の魔族たちがざわつく。
だがリュナは静かだった。
「恐怖という感情はなくならない」
否定しない。
「でも、それだけが全てじゃない」
一瞬の沈黙。
「魔族の方が力は強いかもしれない」
その声は大きくない。
だが、揺るがない。
「ただ、私たちは争いを望まない」
リュナは続ける。
「あなたはどうする?」
問い。
攻撃ではない。
問い。
国王の視線が揺れる。
城壁の下に広がる光景。
兵の中に、自分の甥がいる。
後方には、かつて救った村の老人。
その隣に、魔族の子ども。
ただ、見ている。
選択を。
国王の拳が震える。
「……国は、恐怖なくしてまとまらぬ」
かすれた声。
エルダンが一歩前へ出る。
「ならば問おう」
低く、重い声。
「今、あの列は何でまとまっている?」
国王は言葉を失う。
号令もない。
脅しもない。
それでも列は崩れない。
ラディアが静かに続ける。
「誰もこれ以上傷つけあうことを望んでない」
それが答えだった。
力ではない。
選択。
国王の視界が揺れる。
玉座。
戦勝。
喝采。
それらが遠ざかる。
代わりに見えるのは――
背を向けられる未来。
孤独な城。
誰もいない広間。
その幻は、彼自身の恐怖だった。
ゆっくりと、剣が城壁に落ちる。
乾いた音。
兵たちが息を呑む。
国王は、しばらく空を見上げた。
そして、言う。
「……私は、怖かったのだ」
誰にも聞かれたくなかった本音。
「国を失うのが」
「まとまりを失うのが」
「無力になるのが」
リュナは答えない。
ただ、待つ。
国王は視線を下ろす。
「だが……」
長い沈黙のあと。
「この光景は、私の恐怖では止まらぬのだな」
ゆっくりと振り返る。
「門を、開けよ」
兵が凍りつく。
「陛下……?」
「開けよ」
二度目の命令は、静かだった。
重い門が、軋みながら動く。
城壁の影がゆっくりと揺れる。
列の前に、道ができる。
リュナは振り返る。
魔族と人間が、並んでいる。
彼女は言う。
「進むわよ」
それは命令ではない。
提案でもない。
ただの合図。
アレンが隣で歩き出す。
七人が門をくぐる。
その後に、静かな足音が続く。
誰も叫ばない。
誰も奪わない。
ただ、城の中へ入っていく。
革命は、血を流さなかった。
ただ一人、玉座から降りる決意を生んだ。
朝日は高く昇り、王都を照らす。
戦争は、終わりを告げた。
特別な歴史書には載らない、
名もなき日々。
それでも確かに、
人と魔族が同じ時間を生きている。
リュナとアレンは並んで歩き出す。
帰る場所へ。
未来へ。
物語は、もう語られない。
けれど――
世界は、確かに続いていた。




