2.52
リュナは、そっと目を閉じた。
触れた瞬間に流れ込んできた記憶は、断片ではなく、濁流だった。
「あなたの全てを見たわ」
静かな声。
「逃げた理由も。
卑怯だったところも。
この一年も、その前も」
炎が上がる。
焼け落ちる村。
血の匂いと、泣き声。
――魔族が憎かった。
目の前で、家族を、日常を、すべて奪われた少年の感情。
正義ではない。
ただの怒りだった。
震える手で、幼い少女に幻覚をかける。
「お前は人間だ」
「俺が守る」
吐き気を堪えながら、そう言い聞かせる。
守るためだと。
これしか方法がないのだと。
夜ごとに頭を抱える背中。
笑うたび、胸に沈む罪悪感。
魔王城が近づくにつれ、揺らぐ幻覚。
「バレたら終わる」
その恐怖だけで、息をしていた。
そして――
「アレンは死んだ」
そう思わせる幻覚を放った瞬間。
自分自身を世界から消す決断。
ミラに向けた、間に合わせの嘘。
リュナを守るためだと、何度も心で繰り返しながら。
誰にも会わず、誰にも許されず、
ただ生き延びた、空白の一年。
リュナは、ゆっくりと目を開けた。
「……本当に、馬鹿」
怒りではない。
呆れと、痛みと、ほんの少しの安堵。
アレンは小さく息を吐く。
「一年間、各地を回った」
淡々と語り始める。
「勇者が去った後の村。
魔族と人間の境界。
どちらにも属せない場所」
かつて信じていた“正義”は、そこにはなかった。
「人間が、魔族を狩ってた」
短い言葉が、重く落ちる。
「魔族だから危険だって理由で。
……俺たちが、かつてやったことと同じだ」
ミラの指先が、わずかに揺れる。
「逆もあった。
人間を憎んで、襲う魔族もいた」
アレンは首を振る。
「でも、どっちも“敵”として生まれたわけじゃない」
しばらく沈黙が続く。
「……それで?」
リュナが問う。
アレンの目が、少しだけ柔らぐ。
「共生してる町に出会った」
その声には、確かな熱があった。
「小さな町だった。
人間と魔族が、一緒に畑を耕してた。
喧嘩もするし、疑いも残ってる。
でも……一緒に笑ってた」
それは奇跡ではなかった。
誰かが、逃げずに積み重ねた結果だった。
「俺は、あそこを見て思った」
拳を握る。
「逃げたままじゃ、何も変わらないって」
視線を、まっすぐリュナに向ける。
「俺は今度こそ逃げない」
静かな決意。
「理想を、叶えたい」
勇者としてではなく。
贖罪でもなく。
ただ、自分の意志で。
リュナは、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……遅いのよ」
けれどその声は、柔らかい。
「私がどれだけ遠回りしたと思ってるの」
一歩、近づく。
「でも」
アレンの胸に、指先を当てる。
「今度逃げたら、本当に殺すから」
わずかに、唇が上がる。
それは魔王の笑みではない。
一人の少女の、不器用な許し方だった。
アレンも、ようやく笑う。
「うん。逃げない」
魔王城の窓から、淡い光が差し込む。
壊れた世界は、まだそのままだ。
憎しみも、傷も、消えない。
それでも。
理想を語ることを、もう恐れない。
逃げなかった二人の間に、
確かな未来の気配が、静かに芽生えていた。




