2.51
リュナの喉から、かすかな息が漏れた。
否定したかった。
否定する理由なら、いくらでも並べられる。
死んだはずだ。
この目で見た。
――忘れたことなど一度もない。
けれど。
触れた瞬間に流れ込んできた記憶は、偽れない。
鼓動の癖も、呼吸の間も、泣きそうになるときの、あの不器用な笑い方も。
目の前の男は――生きている。
「……どうして」
声が掠れた。
怒鳴れない。
剣も抜けない。
魔王としての力も、勇者の剣も、すべてが遠のいていく。
ただ問いだけが、床に落ちた。
「どうして……生きてるの」
アレンは答えない。
代わりに、ゆっくりと一歩前に出て、膝をついた。
「……ごめん」
それだけだった。
深く、深く頭を下げる。
「ごめん、リュナ」
名を呼ばれた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
魔王ではない。
ただの、リュナという名を。
「……やめて」
絞り出す声。
「その名前で、呼ばないで」
肩が小さく震える。
怒りではない。
崩れそうになる自分を、必死に支える震えだった。
「……謝らないで」
言葉が、鋭くなる。
「私は……あなたが死んだから、魔王になった」
エルナが息を呑む。
ミラも、レイナも、動けない。
「父を殺した。
あなたは死んだ。
……どうしようもなくて。
それでも、目に見えるものだけは救おうって、必死で」
震える声が、城内に溶ける。
「それなのに」
俯いたままのアレンの前に立つ。
「生きてた?」
問いではない。
ただ、事実を突きつける声。
「……生きてた」
アレンは小さく、答えを返す。
「生きてて。
逃げて。
一年、何もできなかった」
拳が床を握りしめる。
「怖かった。
全部壊したのが自分だって分かってて。
会ったら、もっと壊す気がして」
声が掠れる。
「それでも……謝りたかった」
顔を上げる。
涙で歪んだ視界の向こう、真っ直ぐに彼女を見る。
「許されなくていい。
殴られても、殺されてもいい。
ただ……ごめんって言いたくて。
少しでも、支えになりたくて」
その瞬間。
リュナの表情が、崩れた。
怒りでも憎しみでもない。
その奥に隠していた、どうしようもない感情。
「……ずるい」
拳が、アレンの胸を叩く。
力はない。ただの人の動き。
「死んだって思った人が……そんな顔で謝るなんて……」
二度、三度。
「許せるわけ、ないでしょ……!」
叫びとともに、涙が溢れた。
アレンは動かない。
ただ受け止める。
「……でも」
声が震えながらも続く。
「生きてて、よかったって……思ってしまうのも……悔しい……」
崩れるように膝をつく。
気づけば、二人は同じ高さだった。
長い沈黙のあと。
リュナは、ゆっくりと息を吸う。
「許さない」
はっきりと。
「全部は、許さない」
けれど。
「……でも、一緒にいて」
小さな声だった。
「逃げないで。
今度は、いなくならないで」
アレンの喉が詰まる。
言葉の代わりに、深く頷いた。
リュナはそっと手を伸ばす。
触れた瞬間、流れ込む記憶は、恐怖でも絶望でもない。
迷いながらも戻ってこようとした一年分の後悔と、
今、ここにいるという確かな体温。
「……ばか」
小さく呟き、額を彼の胸に預ける。
魔王城に、静かな泣き声が落ちる。
戦いの余韻も、憎しみの熱も、少しずつ冷えていく。
世界はまだ壊れたままかもしれない。
罪も消えない。
それでも。
この瞬間だけは――
勇者でも、魔王でもない。
ただ、生きて再会した二人だった。




