2.40
森の奥は、不自然なほど静かだった。
葉擦れの音も、虫の羽音も、どこか遠い。
まるでこの場所だけ時間が止まっているみたいだった。
レイナが立ち上がる。
「嫌な気配」
ミラが小さく息を呑む。
アレンも森の奥を見つめる。
「……やっぱり、来るか」
武器は取らない。
しばらく沈黙が続く。
そしてアレンが言う。
「戦わずに止めるぞ。
戦えば、この町の関係が崩れる」
レイナが問う。
「さっきも言ってたけど結局どうする気?」
アレンの目が静かに細まる。
「一つ賭けに出る。
能力でラディアを演じる」
一瞬、空気が固まった。
「……あの女幹部?」
「ああ」
エルナたちと戦った、あの存在。
圧倒的だった、あの魔族。
ミラが息を呑む。
「そんなの、無理……」
アレンは静かに目を閉じた。
「俺の能力は“幻覚”だ。
うまくすれば全てを騙せる」
レイナの目がわずかに見開く。
「……そんなこと」
ゆっくりと立ち上がる。
「俺を、信じなくてもいい」
でも、今は俺に任せてくれ」
ミラが何か言おうとした瞬間――
空気が、変わった。
次の瞬間。
そこに立っていたのは、
アレンではなかった。
森が、息を呑んだ。
空気が軋む。
そこに立っているのは、もうアレンではなかった。
漆黒の外套。
深紅の目。
全身から湧き出る殺気。
あの女幹部――ラディア。
圧倒的な存在感が、森を押し潰す。
ミラが息を止める。
レイナの視線が鋭くなる。
「……本物、みたい」
それは視覚だけではない。
肌に刺さる威圧。
心臓の鼓動が乱されるあの感覚。
すべてが一致している。
ラディアがゆっくりと一歩、前へ出た。
足音すら重い。
森の奥で、魔物たちの気配がざわめく。
確実に戸惑っている。
ラディアは、森へ向けて声を放つ。
「聞け」
低く、鋭い声。
木々が震える。
「ここは――魔王様の実験場である」
空気が凍る。
「干渉は、死罪」
その一言が落ちた瞬間、
森の奥で何かが唸った。
巨大な魔物の影が、木々の間に揺れる。
だが、前へは出ない。
ラディアの瞳が細くなる。
「疑うか?」
威圧が、さらに強まる。
地面が微かに軋む。
魔力の波が森を押し返す。
「魔王様の名を借りて虚言を弄する者など、
存在すると思うか?」
沈黙。
魔物たちは、理解している。
魔王の名を騙ることは――禁忌。
それだけで処刑対象だ。
だからこそ、躊躇う。
完全に納得しているわけではない。
だが、退く理由としては十分だった。
森の圧が、ゆっくりと薄れていく。
気配が、一つ、また一つと遠ざかる。
完全撤退ではない。
だが、包囲は解けた。
静寂が戻る。
しばらく誰も動かなかった。
やがて、ラディアの姿が揺らぎ霧のようにほどけていく。
外套が消え、威圧が薄れ、
そこに立っているのは――アレンだった。
呼吸が荒い。
額に汗が滲んでいる。
「……っ」
膝がわずかに揺れる。
レイナが一歩近づくが、触れない。
「どのくらい、持つの?」
「しばらくは……来ないだろう」
声が掠れる。
「さっきの、ほんとにラディアだった」
「そう見せた」
「……怖かった」
その言葉に、アレンの目が揺れる。
「悪い」
ミラは首を振る。
「違う」
少し間を置いて。
「あなたが、怖かったわけじゃない」
視線を落とす。
「知らなかったことが、怖い」
その言葉は責めていない。
ただ、事実として置かれる。
アレンは何も返せない。
レイナが静かに言う。
「絶対安全とは言わないけど。
時間は稼げたはずよ」
アレンはうなずく。
「この後はどうするの?」
「行こう」
決意を胸に魔王城方面を見つめる。
レイナが目を細める。
ミラはゆっくりとうなずいた。
「……まだ、全部は整理できない」
正体のこと。
嘘のこと。
「でも」
顔を上げる。
「今は、一緒に行く。
あの子が待ってるから」
信用されているわけでもない。
ただ今はそれで十分だった。
アレンは小さく笑う。
「ありがとう」
森は、静かだ。
だが完全な平穏ではない。
それでも時間は稼げた。
向かうは魔王城。
旅の終着点まであと少し。




