2.39
朝の広場。
人間の代表と、魔族の壮年。
数人が集まっている。
昨日の偵察の話が出ているらしい。
「今後、見張りを増やすべきだ」
「夜の火は最小限に」
静かな議論。
アレンは歩み寄る。
エルナが一歩後ろに立つ。
「……少し、時間をもらえないか」
代表が視線を向ける。
「何だ」
周囲の空気が、わずかに変わる。
旅人が口を開くときの気配ではない。
アレンは、ゆっくりと息を吸う。
「名を偽っていた」
ざわり、と空気が揺れる。
「リオは仮の名だ」
人間の若者が眉をひそめる。
「規律は守ると言ったはずだ」
「破った」
否定しない。
「だが、今は偽らない」
静寂。
アレンはまっすぐ前を見る。
「俺の名は、アレン」
その名が落ちた瞬間。
魔族の壮年の目がわずかに揺れる。
知っている。ただそれは死んだ者の名前。
「……あの?死んだはずじゃ?」
人間の若者が低く呟く。
アレンは頷く。
否定しない。
広場の空気が凍る。
子どもが、状況を理解しないまま立ち止まる。
エルナの指先が、そっと握られる。
代表がゆっくりと問う。
「なぜ、ここへ来た」
「偶然だ」
嘘ではない。
「だが……見ないふりをしていた場所だった」
視線が、慰霊碑へ向く。
「共に暮らす町の噂は知っていた。だが信じなかった。信じたくなかった」
魔族の若者が拳を握る。
「俺たちを、嘘だと思っていたのか」
「思っていた」
まっすぐに返す。
「見れば、自分が壊れると思った」
沈黙。
責める言葉は、まだ出ない。
アレンは続ける。
「俺は逃げた」
声は低いが、震えはない。
「魔王から。責任から。終わらせるべき戦いから」
その言葉に、人間の若者が息を呑む。
「なら、ここに隠れるつもりだったのか?」
一瞬だけ、答えが詰まる。
その未来が、頭をよぎる。
畑を耕し、柵を直し、名もなき旅人として。
可能だった。
だが――
「……それも考えた」
正直に言う。
エルナが、横で息を止める。
「だが、今は違う」
森の方角を見る。
「みんなも知っての通り。もうすぐ森の奴らは動き出す」
ざわめきが広がる。
「ただ安心してほしい。俺に考えがある。
けして誰も傷つけない。この町も。あっちの魔族も」
静かな決意。
「これから森に入り一計を案じる。
そのまま俺たちはここから去る」
広場が完全に沈黙する。
風の音だけが通り抜ける。
魔族の壮年が一歩前に出る。
「去った後はどうする。また魔王を討伐するのか」
アレンは目を逸らさない。
「謝罪だ」
予想外の言葉に、何人かが息を漏らす。
「戦を広げた責任を。逃げた責任を。俺自身の罪を」
怒号は上がらない。
誰も笑わない。
ただ、重さだけが残る。
人間の若者が唇を噛む。
「……戻ってくるのか」
問いは敵意ではない。
不安だ。
アレンは少しだけ考える。
「分からない」
正直に言う。
代表が長く息を吐く。
「我々は、ここで生きると決めた」
視線は鋭い。
「お前のお前の好きに生きろ
私たちは私たちの戦いがある」
「ああ、ありがとう」
広場の緊張が、ゆっくりと形を変える。
完全な信頼ではない。
完全な拒絶でもない。
ただ、選択を受け止める空気。
子どもが小さく呟く。
「おじさん、いなくなるの?」
アレンは膝を折る。
目線を合わせる。
「少し、遠くへ行く」
「帰ってくる?」
その問いに、言葉が詰まる。
エルナが代わりに微笑む。
「きっとね」
嘘ではない。
約束でもない。
可能性だ。
アレンは立ち上がる。
慰霊碑が朝日に照らされる。
剣と角。
並んだ紋。
ここは、あり得た未来。
だが自分は、まだそこに立つ資格がない。
代表が最後に言う。
「去るなら、今日のうちに」
「ああ」
短い返答。
エルナが隣に並ぶ。
「行こう、兄さん」
今度は言い直さない。
アレンは一瞬だけ目を閉じる。
そして、町を見渡す。
畑。
柵。
笑い声。
残る未来。
「……守れ」
誰にともなく、そう呟く。
そして背を向ける。
門が、ゆっくりと開く。
境界を、再び越える。
今度は、逃げるためではない。
終わらせるために。
戦場の上に築かれた町は、
朝の光の中で、静かに息をしている。




