2.37
夜は、深くなるほど静かだった。
だがその静けさは、安らぎとは違う。
息を潜めているような静寂。
リオは柵の外縁に立ち、森を見つめていた。
月は半分。
影は濃い。
――いる。
闇の奥。
動かない気配。
数は多くない。
多分まだ偵察している。
攻めるつもりではない。
だが、見ている。
値踏みしている。
「……やっぱり」
背後から、小さな声。
振り返ると、ミラが立っていた。
夜風に揺れる髪。
だがその目は、冗談を言う時の柔らかさを失っている。
「なかなかの大所帯ね」
「……ああ」
短い応答。
ミラは森を睨む。
「嫌な感じ。踏み込まないけど、引きもしない」
言語化が早い。
リオはわずかに目を細める。
「今夜は動かない」
「分かるの?」
「なんとなく」
それ以上は言わない。
足音がもう一つ。
レイナが現れる。
無言で森を一瞥し、距離を測るように視線を走らせる。
「圧が浅い。威嚇と牽制
本気なら、殺気立ってる」
「そうだな」
リオは頷く。
レイナの視線が、一瞬だけ彼を射抜く。
「あなた、なんだか…
いや、何でもないわ」
レイナにしては歯切れが悪い。
リオは視線を外す。
森の奥で、微かに枝が鳴る。
視線が交差する。
闇と、闇。
互いに踏み込まない。
均衡。
だが、それは薄い。
背後で小さな足音。
エルナだった。
「……外?」
「あぁ、でも大丈夫だ」
「来ない?」
「少なくとも今夜は来ない」
エルナは森を見つめる。
「何でここを偵察しているのかな?」
問いはまっすぐ。
リオは少し考える。
「……それは、当然のことだ」
「当然?」
「世界は、まだここを許していない」
その言葉に、ミラの表情が揺れる。
レイナは静かに目を伏せる。
エルナだけが、前を向く。
「でも、理想はここにある気がする」
強い声。
「目の前にあるのに」
リオは何も返さない。
森の奥の気配が、ゆっくりと遠ざかる。
偵察は終わった。
だが、終わったのは今夜だけだ。
*
翌朝。
空気はいつも通りだった。
子どもが走り、畑に水をやり、薪が割られる。
だが微妙に違う。
広場の端で、ミラとレイナが小声で話している。
「昨夜は結構やばい感じじゃなかった?」
ミラが言う。
「うん」
レイナは短く答える。
「……あの人も、全部分かってるよね」
ミラの視線は、柵を持ち上げるリオへ。
「尋常ではない観察眼だと思う。
それこそ長年戦場で生活しているような」
レイナは静かに言う。
「旅人の域じゃない」
その時。
リオの声が響く。
「補強を増やせ」
「正面は厚く。森側は視界を開けろ。死角を減らせば、夜の圧は軽くなる」
的確。
迷いがない。
広場の空気が、わずかに従う。
ミラが小さく呟く。
「……それにこの頼れる感じ。
あの人を思い出す」
レイナは答えない。
ただ、確信を積み上げている。
少し離れた場所で、エルナがその背中を見ている。
声のかけ方。
視線の配り方。
姿勢。
胸の奥で、確信が濃くなる。
*
夕方。
慰霊碑の前。
リオは一人で立っていた。
石の前に立つと、時間が歪む。
剣と角。
並んだ紋。
ここでは、終わらせたと言う。
だが本当に終わったのか?
森の向こうは、まだ続いている。
「……兄さん」
背後から、はっきりとした声。
リオの肩が、わずかに揺れる。
振り返らない。
「ずっと、見てた」
エルナの声は震えていない。
「戦い方も、気配も、目も」
一歩近づく。
「隠してるつもりでも、消えてない」
沈黙。
風が石を撫でる。
「ミラも、レイナも、まだ確信には至ってないみたいだけど」
その一言で、空気が変わる。
「聞けないだけ」
エルナは石碑に触れる。
「ここを見たときの顔、忘れられない」
リオはゆっくりと目を閉じる。
「……壊した、壊してきた
理想はあったのにただ命じられたことだけしかできなかった」
低い声。
「だから、何も守れなかった
俺がしてきたのは傷つけることだけだ」
エルナはただ見てることしかできない。
「何があったの?」
リオの喉が鳴る。
森の向こうよりも、この声の方が痛い。
「幻術、解いて」
優しく。
確認。
長い沈黙。
やがてリオは、息を吐く。
「……分かっていたか」
「うん」
「いつからだ」
「最初から、少し変。でも、ここで確信した」
逃げ場はない。
リオは目を閉じる。
魔力を緩める。
皮膚を覆っていた違和感が、ほどけていく。
輪郭が変わる。
長く隠していた本来の姿。
アレン。
目を開ける。
そこにいるのは、兄だ。
エルナは息を呑む。
だが泣かない。
「……生きてた。
やっと、ちゃんと会えた」
微笑む。
アレンは視線を逸らす。
「お前にまた会えたとき俺もうれしかった。
ただちょっと待ってくれ。いろいろ覚悟が必要だ」
「ずっと待ってたもの。もう少しくらい待ってあげる。
ミラにも、レイナにも正体は話す?」
「ああ」
短い決意。
風が吹く。
町の灯りが揺れる。
共存は、ここにある。
だが世界は、まだ追いついていない。
アレンは石碑を見つめる。
自分の名を。
自分の罪を。
全て明かす。
その上で――魔王城へ向かう。
夜は静かに更けていく。
均衡はまだ保たれている。
だがその下で、
選択は、静かに固まり始めていた。




