2.36
朝は、驚くほど静かだった。
鳥の声。
畑を耕す鍬の音。
柵を叩く木槌の乾いた響き。
戦場だったとは思えない。
リオは軒先に立ち、ゆっくりと周囲を見渡す。
空気は穏やかだ。
それだけで、胸がざわつく。
「静かね」
背後でミラが言う。
振り返ると、彼女は腕を組み、通りを観察していた。
「平和には違いないけど、緊張はお互いにあるみたい。」
レイナが屋根の端から降りてくる。
人間と魔族、子供は仲良くやっている。
ただ大人はどうしてもどこかぎこちない。
争いはない。起きえない。起きたら全てが終わってしまうから…。
エルナが駆け寄ってくる。
頬に土がついている。
「リオ、今日は畑手伝うんだって」
エルナが駆け寄ってくる。
頬に土がついている。
「魔族の人、力強いからすごいよ。でも細かいところは人間の方が上手なんだって」
楽しそうに言う。
リオは小さく頷く。
「……合理的だな」
「うん。ちゃんと役割があるんだよ」
役割。
その言葉が、わずかに引っかかる。
広場では、人間の男が種を撒き、魔族の青年が畝を整えている。
言い合いながらも、手は止まらない。
軽口。
笑い声。
不自然さはない。だけどどこかたどたどしい。
リオは鍬を受け取り、黙って土に向き合う。
身体を動かすのは嫌いではない。
単純で、考えなくて済む。
だが今日は違う。
土の匂いの奥に、焦げた匂いを思い出す。
ここで血が流れた。
自分たちが流した。
鍬を振り下ろすたび、地面の下に何かが眠っている気がする。
「旅人、力はあるな」
隣で魔族の青年が言う。
角はまだ若い。
だが目はまっすぐだ。
「戦える目をしている」
リオは動きを止めない。
「ただの護身だ」
「そうか?」
青年は笑う。
「ここに来る前、戦ってきた顔だ」
心臓が、わずかに鳴る。
見抜かれているわけではない。
ただの観察だ。
だが、居心地が悪い。
「……外はまだ荒れている」
リオは土を均しながら言う。
「ここをよく思わない連中もいる」
青年の手が一瞬止まる。
「知っている。だから柵を直す」
視線が、町の外へ向く。
「だが、恐れて閉じれば、ここは終わる」
簡単な言葉。
だが、重い。
昼になると、広場に食事が並ぶ。
簡素だが温かい。
人間の女が煮込みを配り、魔族の男が薪を足す。
エルナは子どもたちに囲まれている。
「ねえ、旅人のお兄ちゃんって強いの?」
「強いよ!」
勝手に答える魔族の子。
エルナが笑う。
「でも優しいよ」
その言葉に、リオの手が止まる。
優しい。
そんな評価を、いつ受けただろう。
魔族の小さな子が、リオの前に立つ。
角はまだ短い。
目は澄んでいる。
「おじさん、どこから来たの?」
おじさん。
わずかに口元が緩む。
「遠くだ」
「遠くってどこ?」
答えられない。
子どもは不満そうに唇を尖らせるが、すぐに別の話題に移る。
「ねえ、これ持てる?」
小さな石を差し出す。
リオが受け取る。
軽い。
だが、その手に触れた瞬間。
ぴくり、と身体が強張る。
柔らかい体温。
守るべきだった存在。
守れなかった存在。
一瞬だけ、視界が赤に染まる。
血。
叫び。
崩れ落ちる城壁。
石を握る手に、力が入りすぎる。
「……痛い」
子どもの声。
はっとして手を離す。
「すまない」
声が低くなる。
子どもは不思議そうに首を傾げるが、すぐに笑う。
「へんなの」
そして走り去る。
エルナが、その一瞬を見ていた。
ミラも見ている。
レイナは、リオの呼吸の乱れを測るように視線を向ける。
だが、誰も何も言わない。
ただ、目を細める。
夕方。
柵の修繕を手伝う。
人間の若者が釘を打ちながら呟く。
「……いつか攻めてくる」
声は小さいが、消えない。
「外の魔族が黙ってるわけない」
近くの魔族が眉をひそめる。
「我らはここを選んだ」
「でも向こうは選んでない」
空気が、わずかに張る。
大声ではない。
怒鳴り合いでもない。
だが、亀裂はある。
リオは無言で板を押さえる。
若者の言葉は正しい。
魔族の言葉も正しい。
どちらも正しいから、厄介だ。
日が沈む。
橙色の光が慰霊碑を照らす。
剣と角の紋が、同じ色に染まる。
エルナが隣に立つ。
「……ここ、いい町だね」
「うん」
短く答える。
「リオは、どう思う?」
どう思う。
胸の奥が軋む。
あり得た未来。
もしかしたら、守れたかもしれない世界。
――だが、自分は壊した側だ。
「……脆い」
やがて答える。
「成立しているが、均衡の上だ」
「でも、成立してる」
エルナは揺らがない。
ミラが森を見る。
「……ねえ、何か変じゃない」
レイナの視線も外縁へ向く。
「森に動きがある」
リオは、すでに気づいていた。
遠くの森が、わずかにざわめく。
外からの視線。
静かに、だが確実に近づく圧。
リオの目が細くなる。
均衡は、思っているより薄い。
夜が来る。
町は灯りを落とす。
笑い声はまだある。
だがその奥で、見えない波が立ち始めている。
リオは一人、外縁へ歩く。
森を見つめる。
闇の向こう。
そこにいる。
こちらを見ている。
ここは理想かもしれない。
だが、世界はまだ理想に追いついていない。
風が、冷たく変わる。
あり得た未来は、
まだ、試されていない。




