2.34
風が、低く鳴いていた。
草は膝の高さまで伸び、揺れるたびにざわりと擦れ合う。
その下に何が埋まっているのか知らなければ、ただの野原に見えただろう。
だが、リオは知っている。
土の色が、ところどころ不自然に黒い。
草の根元に、錆びた鉄の欠片が光る。
踏みしめると、乾いた骨のような音がする。
――かつて、ここで戦があった。
エルナは歩きながら、何度か足元を見た。
「……なんか、変な感じ」
焼け跡は消えている。
けれど、空気の重さが違う。
レイナが低く言う。
「前線だった場所ね。人間側と魔族側がぶつかった地点」
「よく分かるね」
「私たちも昔と負った道だからね。」
淡々とした声だった。
ミラはしゃがみ込み、土を指でなぞる。
「……血はもう乾いてる。でも、完全には消えないわ」
リオは何も言わない。ただ前を歩いている。
背中は静かで、無防備なようで、どこか張り詰めている。
風向きが変わった。
そのときだった。
煙の匂いがした。
焦げた匂いではない。
煮炊きの匂い。薪の、生活の匂い。
エルナが顔を上げる。
「……人が、いる?」
ミラも立ち上がる。
「野営? こんなところでよくやるわね」
レイナが目を細める。
「複数。……しかも、魔力も混じってる」
その言葉に、空気がわずかに緊張した。
リオは答えない。
だが、視線が僅かに揺れた。
ただし血の匂いはしない。
「共存する町…」
エルナがつぶやく。
リオは振り向きながら、人づてで聞いたある噂を思い出した。
戦争の爪痕の中に、
人間と魔族が共に暮らす町があると。
誰も本気にしていなかった。
リオも。
――信じなかった。
いや。
信じたくなかった。
「行くの?」
エルナがまっすぐに問う。
リオは少しだけ沈黙してから答える。
「……確認するだけだ」
「確認って?」
「事実かどうか」
「もし本当だったら?」
その問いに、リオは答えない。
代わりにミラが言う。
「本当なら、面白いわね。」
しかしレイナは冷静だ。
「理想論か、均衡か、あるいは奇跡か。ただ…」
「ただ…?」
「歪であることは間違いないわ」
そのやり取りの間、リオは煙を見つめている。
もし、本当にあったなら。
自分は何を、見てきたことになる?
何を、壊してきたことになる?
喉が、わずかに鳴る。
「……近づくだけだ」
草をかき分ける。
土の色が、少しずつ変わる。黒から、茶へ。
やがて木立を抜け、視界が開けた。
柵がある。
粗いが、補強は丁寧だ。
畑がある。
洗濯物が揺れている。
そして。
角のある男が薪を運んでいた。
その向こうで、人間の女が笑っている。
子どもが走る。
人間の子と、魔族の子が、同じ土の上を。
エルナが息を呑む。
「……うそ」
ミラの声は、わずかに震えていた。
「……本当に、一緒に生活してる」
レイナは低く言う。
「統制が取れてる。そもそも何か思ってたより自然」
リオの呼吸が止まる。
世界が、ほんの少しだけ歪む。
あり得ないはずの光景。
否。
あり得ないと、決めつけていた光景。
笑い声が、胸の奥に刺さる。
その音は、懐かしい。
――遠い旅路で、聞いた音に似ている。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ。
ある魔族の少女の笑顔が、脳裏をかすめる。
リオは目を閉じかけ、止めた。
柵の内側から、人間の男がこちらに気づく。
警戒の色。
その隣に、角を持つ青年が並ぶ。
空気が張り詰める。
エルナが一歩前へ出た。
リオの手が、わずかに動く。
止めようとして――止めなかった。
「こんにちは!」
エルナの声は、思ったより明るかった。
男が慎重に答える。
「……旅人か?」
「はい。通りがかっただけです。ここ、町なんですか?」
沈黙。
やがて、年配の男が歩み出る。
その隣に、魔族の女性。
自然に並んでいる。
「戦場跡に残った者たちの町だ」
老人は言う。
「争いに疲れた者同士が、ここで暮らしている」
魔族の女性が続ける。
「完璧じゃないけどね。喧嘩もするし、偏見も消えない。でも――」
少しだけ、誇らしげに。
「それでも、ここでは剣を抜かないって決めた」
ミラが小さく呟く。
「……決めた、か」
レイナが問いを投げる。
「主導は誰が?」
「お互いの年寄りで話し合った。いろいろあったからね」
老人が苦笑する。
「若いのは血が熱い。だから止める役がいる」
リオは、遠くを見る。
人間の少年と魔族の子が石を積んでいる。
積んでは崩し、また笑う。
その奥。
慰霊碑が立っている。
剣と角の紋が並んで刻まれている。
戦場の上に築いたのか。
胸の奥が、軋む。
魔族の青年がリオを見る。
「慣れないだろ。警戒はしていい。だが、こちらに敵意はない」
まっすぐな目。
試すでもなく、怯えるでもなく。
ただ、真っ直ぐ。
リオはゆっくりと息を吸った。
「……少し、滞在させてもらえないか」
エルナが振り向く。
「え?」
ミラも目を丸くする。
「リオ?」
レイナは無言で彼を見る。
逃げるはずだった。
魔王城へ向かうはずだった。
なのに、足は動かない。
この場所から、目を逸らせない。
人間の男が頷く。
「規律を守るなら、構わない」
門が、きしみながら開く。
境界が、ゆっくりと広がる。
エルナが小声で言う。
「……大丈夫?」
リオは一瞬だけ視線を落とし、
かすかに笑った。
「分からない」
正直な答えだった。
「でも――見ないまま進むのは、もっと嫌だ」
ミラが小さく息を吐く。
「……変わったね、少し」
レイナが静かに言う。
「いい変化かどうかは、まだ分からないけど」
風が吹く。
戦場の上に築かれた町。
あり得ないと思っていた未来。
直視したくなかった光景。
四人は、境界を越える。
そして、風がまた鳴いた。
今度は、ほんの少しだけ。
柔らかく。




