2.32
森は、昨日と同じ匂いだった。
けれど――空気だけが違う。
血の匂いと、焼けた土の匂いが、まだ微かに残っていた。
木々の間。
折れた枝。
抉れた地面。
ほんの少し前まで、命を削る戦いがあった証が、静かに横たわっている。
◇
「……大丈夫?」
レイナが、少し声を落として聞いた。
エルナは、頷くまでに少し時間がかかった。
「……うん。動ける」
胸の奥はまだ重い。
呼吸のたびに、ラディアの指が喉元に触れた感覚がよみがえる。
――迷った。
あの一瞬。
そして。
空気が裂けて。
黒い外套の男が現れた。
◇
少し離れた場所。
その男――リオは、無言で剣の血を拭っていた。
肩口に浅くない裂傷。
脇腹にも、赤が滲んでいる。
けれど顔色は変わらない。
痛みを気にする素振りすらなかった。
ミラが腕を組んで近づく。
「……アンタさ」
少しだけ低い声。
「死ぬ気で戦うタイプ?」
リオは答えない。
布を折りたたみ、静かに鞘に収める。
「……助けられたのは事実。ありがと」
ミラが言うと、少しだけ視線が動いた。
「……通りがかりに助けただけだ。」
短い声。
それだけだった。
◇
「でもさ」
レイナが屈んで、傷を覗き込む。
「通りがかりで幹部級と互角って普通じゃないよね?」
少しだけ明るく言うけれど、目は真剣だった。
リオは目を逸らす。
「……長居する気はない」
そう言って、立ち去ろうとした。
その背中に。
「……待って」
エルナが、思わず声を出していた。
リオの足が止まる。
「……さっき」
言葉が出ない。
うまく繋がらない。
「……助けてくれて、ありがとう」
やっとそれだけ言う。
リオは少しだけ振り向いた。
フードの影で、表情は見えない。
「……気にするな」
それだけ言って、また歩き出そうとする。
けれど。
「ちょっと待った!」
ミラが前に回り込む。
「アンタ、その傷で一人行く気?」
沈黙。
「……問題ない」
「いや問題あるでしょ」
即答だった。
レイナも頷く。
「さっきの幹部……絶対また来るよ?」
その言葉に、リオの視線がわずかに細くなった。
けれど何も言わない。
「ならさ」
ミラが少しだけ柔らかく言う。
「しばらく一緒に動けば? アンタも私達も、単独より生存率上がる」
沈黙が落ちる。
森の音だけが響いた。
風。
葉の擦れる音。
長い間のあと。
「……好きにしろ」
諦めたような声。
それが、同行の了承だった。
◇
歩き出す。
四人で。
少しだけ距離の空いた隊列。
前をリオ。
中央にエルナ。
後ろをミラとレイナ。
「ねえ、リオって呼んでいい?」
レイナが聞く。
少しの間。
「……勝手にしろ」
「じゃあリオ!」
明るい声。
ほんの少しだけ。
空気が和らいだ。
けれど。
エルナの中では、まだ戦いが終わっていなかった。
――迷った。
あの瞬間。
動けなかった。
そして。
リオの戦い方。
致命傷を恐れない踏み込み。
相打ちすら気にしない距離。
怖かった。
でも――
どこか、目が離せなかった。
◇
森のさらに奥。
誰もいないはずの場所。
ラディアは、木の根に背を預けていた。
静かに息を整える。
脇腹から、血がゆっくり落ちる。
致命ではない。
けれど。
「……思ったより、深いわね」
小さく呟く。
近距離転移は使える。
でも、戦闘を続ければ確実に精度が落ちる。
あの三人だけなら、予定通り終わっていた。
問題は――
黒い外套の少年。
“リオ”。
無謀な踏み込み。
致命傷を恐れない戦い方。
そして。
「……既存の情報に、ない」
目を細める。
知らないはずの存在。
でも。
戦いの中で、ほんの一瞬だけ感じた違和感。
どこかで――見た動き。
ラディアは首を振った。
「……いいわ」
思考を切る。
任務を優先。
空間が静かに歪む。
「現時点での処理は一時中断。
対象“継承者”は引き続き監視」
一歩、転移の縁へ。
「……優先対象を変更する」
淡い瞳が、森の奥――四人が消えた方向を見た。
「“リオ”……あなたから調べましょう」
わずかな沈黙。
「……リュナ様には、まだ報告しない」
空間が閉じる。
森に残ったのは、風の音だけだった。
◇
知らないまま。
四人は歩く。
静かに。
確実に。
次の戦いへ近づきながら。
影は、まだ消えていなかった。




