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2.32

森は、昨日と同じ匂いだった。


 けれど――空気だけが違う。


 血の匂いと、焼けた土の匂いが、まだ微かに残っていた。


 木々の間。

 折れた枝。

 抉れた地面。


 ほんの少し前まで、命を削る戦いがあった証が、静かに横たわっている。



「……大丈夫?」


 レイナが、少し声を落として聞いた。


 エルナは、頷くまでに少し時間がかかった。


「……うん。動ける」


 胸の奥はまだ重い。

 呼吸のたびに、ラディアの指が喉元に触れた感覚がよみがえる。


 ――迷った。


 あの一瞬。


 そして。


 空気が裂けて。


 黒い外套の男が現れた。



 少し離れた場所。


 その男――リオは、無言で剣の血を拭っていた。


 肩口に浅くない裂傷。

 脇腹にも、赤が滲んでいる。


 けれど顔色は変わらない。

 痛みを気にする素振りすらなかった。


 ミラが腕を組んで近づく。


「……アンタさ」


 少しだけ低い声。


「死ぬ気で戦うタイプ?」


 リオは答えない。

 布を折りたたみ、静かに鞘に収める。


「……助けられたのは事実。ありがと」


 ミラが言うと、少しだけ視線が動いた。


「……通りがかりに助けただけだ。」


 短い声。


 それだけだった。



「でもさ」


 レイナが屈んで、傷を覗き込む。


「通りがかりで幹部級と互角って普通じゃないよね?」


 少しだけ明るく言うけれど、目は真剣だった。


 リオは目を逸らす。


「……長居する気はない」


 そう言って、立ち去ろうとした。


 その背中に。


「……待って」


 エルナが、思わず声を出していた。


 リオの足が止まる。


「……さっき」


 言葉が出ない。

 うまく繋がらない。


「……助けてくれて、ありがとう」


 やっとそれだけ言う。


 リオは少しだけ振り向いた。


 フードの影で、表情は見えない。


「……気にするな」


 それだけ言って、また歩き出そうとする。


 けれど。


「ちょっと待った!」


 ミラが前に回り込む。


「アンタ、その傷で一人行く気?」


 沈黙。


「……問題ない」


「いや問題あるでしょ」


 即答だった。


 レイナも頷く。


「さっきの幹部……絶対また来るよ?」


 その言葉に、リオの視線がわずかに細くなった。


 けれど何も言わない。


「ならさ」


 ミラが少しだけ柔らかく言う。


「しばらく一緒に動けば? アンタも私達も、単独より生存率上がる」


 沈黙が落ちる。


 森の音だけが響いた。


 風。

 葉の擦れる音。


 長い間のあと。


「……好きにしろ」


 諦めたような声。


 それが、同行の了承だった。



 歩き出す。


 四人で。


 少しだけ距離の空いた隊列。


 前をリオ。

 中央にエルナ。

 後ろをミラとレイナ。


「ねえ、リオって呼んでいい?」


 レイナが聞く。


 少しの間。


「……勝手にしろ」


「じゃあリオ!」


 明るい声。


 ほんの少しだけ。

 空気が和らいだ。


 けれど。


 エルナの中では、まだ戦いが終わっていなかった。


 ――迷った。


 あの瞬間。

 動けなかった。


 そして。


 リオの戦い方。


 致命傷を恐れない踏み込み。

 相打ちすら気にしない距離。


 怖かった。


 でも――


 どこか、目が離せなかった。



 森のさらに奥。


 誰もいないはずの場所。


 ラディアは、木の根に背を預けていた。


 静かに息を整える。


 脇腹から、血がゆっくり落ちる。


 致命ではない。


 けれど。


「……思ったより、深いわね」


 小さく呟く。


 近距離転移は使える。

 でも、戦闘を続ければ確実に精度が落ちる。


 あの三人だけなら、予定通り終わっていた。


 問題は――


 黒い外套の少年。


 “リオ”。


 無謀な踏み込み。

 致命傷を恐れない戦い方。


 そして。


「……既存の情報に、ない」


 目を細める。


 知らないはずの存在。


 でも。


 戦いの中で、ほんの一瞬だけ感じた違和感。


 どこかで――見た動き。


 ラディアは首を振った。


「……いいわ」


 思考を切る。


 任務を優先。


 空間が静かに歪む。


「現時点での処理は一時中断。

 対象“継承者”は引き続き監視」


 一歩、転移の縁へ。


「……優先対象を変更する」


 淡い瞳が、森の奥――四人が消えた方向を見た。


「“リオ”……あなたから調べましょう」


 わずかな沈黙。


「……リュナ様には、まだ報告しない」


 空間が閉じる。


 森に残ったのは、風の音だけだった。



 知らないまま。


 四人は歩く。


 静かに。


 確実に。


 次の戦いへ近づきながら。


 影は、まだ消えていなかった。

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