1.3
朝霞が、草原を薄く覆っていた。
夜の名残を引きずるように、冷たい空気が肌を撫でていく。
焚き火の跡は、ほとんど炭に変わっていた。
それでも、赤い火種がまだわずかに残っている。
リュナは、その傍らで剣を磨いていた。
鞘から抜いた刃に、淡い朝日が反射する。
指先が触れた瞬間、身体が自然と理解した。
――この剣は、強い。
かつて振るわれた戦い方。
無駄のない踏み込み。
最短の斬撃。
躊躇のない判断。
(……大丈夫)
私は、弱くない。
この剣を持つ限り、戦える。
そう思っているはずなのに。
胸の奥に、細い刺のような違和感が残っていた。
理由は分からない。
怖いわけでも、迷っているわけでもない。
ただ――
静かな朝なのに、心だけが落ち着かなかった。
「……おはよう、リュナ」
背後から、柔らかな声。
振り返ると、アレンが立っていた。
銀色の髪が朝日に照らされ、青い瞳が穏やかに細められている。
「早いね。ちゃんと眠れた?」
「うん、大丈夫」
考えるより先に、そう答えていた。
アレンが近くにいるだけで、胸のざわめきが少しずつ引いていく。
(……どうしてだろう)
安心する。
理由は分からないのに。
アレンは剣を磨く手元を見て、少し笑った。
「昨日の戦い、すごかったよ。正直……見とれた」
「……大げさだよ」
リュナは視線をそらす。
少しだけ頬が熱くなった。
だが、不安は完全には消えなかった。
空は晴れている。
風も穏やかだ。
何も問題はないはずなのに――。
――夢を見ていた。
燃える家。
崩れる屋根。
逃げ惑う人々。
そして、赤い目。
「……っ」
目を覚ますと、草原の空が広がっていた。
焚き火の残り香が、かすかに漂っている。
夢じゃない。
あれは現実だ。
俺の村は――魔族に滅ぼされた。
……笑っていた。
角を持つ“それ”は。
視線の先で、リュナが剣を磨いている。
背筋を伸ばし、迷いのない所作で。
本来なら――
あそこにあるはずのものは、見えない。
俺が、隠している。
幻覚で。
視覚も、触覚も。
違和感そのものを。
(……最低だ)
分かっている。
やっていることが、どれだけ歪んでいるか。
それでも、やめられない。
止めた瞬間――妹が死ぬ。
あの牢の中で、二度と外の空を見られないまま。
「おはよう」
何事もないふりをして声をかける。
リュナは顔を上げ、微笑んだ。
……その笑顔が、胸を抉る。
憎しみ。
罪悪感。
そして、いつの間にか芽生えた情。
全部が混ざって、息が詰まる。
(……俺は、許されなくていい)
妹を守れれば、それでいい。
そう言い聞かせるしかなかった。
少し離れた場所で、ガルドは腕を組んで二人を見ていた。
リュナとアレン。
並んで立つ姿は、兄妹のようにも見える。
リュナは強い。
それは間違いない。
だが最近、戦闘以外の場面で妙に――
アレンの顔色を気にしている気がした。
「……気のせい、か?」
ガルドは首を振る。
若いんだ。
初めての旅で、不安になるのも当然だろう。
それに――
アレンは頼れる。
戦いになれば、あいつの剣は別格だ。
判断も早く、迷いがない。
このパーティが迷わず動けるのは、あいつがいるからだ。
(俺が考えすぎる必要はない)
そう結論づけ、ガルドは声を張った。
「出発するぞ!」
風が変わった。
草を撫でていた穏やかな風が、ひやりと冷たくなる。
「……止まれ」
小さく、アレンが言った。
その一言で、全員の足が止まる。
「何かいるか?」
ガルドの問いに、アレンは草原を見渡す。
「囲まれてる。数は五……いや、六」
次の瞬間。
草の中から魔族が飛び出した。
狼のような四足魔族。
「ガルド、正面!」
「任せろ!」
盾が衝撃を受け、地面が揺れる。
「レイナ、左を削れ!」
「了解!」
矢が連続して放たれる。
「ミラ、後衛魔法!」
「展開する!」
魔法陣が輝いた。
そして――
一体がアレンへ飛びかかった。
牙が迫る。
だがアレンは動じない。
半歩だけ下がり。
剣を抜く。
銀の線が走った。
一閃。
魔族の首が宙を舞う。
さらにもう一体。
跳びかかる魔族の爪を、剣の腹で受け流す。
踏み込み。
刃が胸を裂く。
動きに、迷いがない。
戦い慣れた者の剣だった。
「すげえな……」
ガルドが思わず呟く。
だが戦いはまだ終わっていない。
リュナも前に出る。
踏み込み。
斬撃。
魔族が次々倒れる。
最後の一体を、アレンが斬り伏せた。
静寂が戻る。
アレンは剣を払う。
「怪我は?」
「なし!」
「大丈夫だ」
全員が答える。
アレンは短く頷いた。
「進もう」
◇
――王国の地下。
厚い石壁に囲まれた部屋。
窓はない。
小さなランプの光だけが、静かに揺れている。
鉄格子の向こうに、少女が座っていた。
細い身体。
疲れた瞳。
だが、その目だけはまっすぐだった。
「……お兄ちゃん」
小さく呟く。
返事はない。
ここには誰もいない。
ただ、扉の外に兵士が立っているだけだ。
少女は膝を抱える。
寒い。
それでも、泣かなかった。
(お兄ちゃん……まだかな)
信じている。
あの優しい兄が。
またすぐ来てくれると。
だから――
ここで待つしかない。
石の部屋は、どこまでも静かだった。
◇
焚き火の前で、リュナは空を見上げていた。
星が、綺麗だった。
「……ねえ、アレン」
「ん?」
「私、強い……よね?」
ぽつりと漏れた言葉。
アレンは少しだけ間を置いてから答えた。
「うん」
穏やかな声だった。
「誰よりも強いよ」
その言葉を聞いて、胸が軽くなる。
……なのに。
安心と一緒に、
胸の奥が少しだけ痛んだ。
アレンがいないと、不安になる。
彼の言葉がないと、落ち着かない。
それが、当たり前みたいになっている。
私は剣を握りしめる。
強いはずなのに。
一人でも戦えるはずなのに。
心だけが――
誰かに縛られている。
焚き火の火は、静かに揺れていた。
その向こうで、アレンは微笑んでいる。
その笑顔が。
私を支えているのか。
それとも――
縛っているのか。
まだ、分からなかった。




