1.2
朝霧が森を薄く覆っていた。
焚き火の残り火が、小さくぱちりと音を立てる。
リュナは目を覚ますと、無意識に剣へと手を伸ばしていた。
指先に伝わる、冷たい金属の感触。
その瞬間、頭の奥に記憶が流れ込んでくる。
剣を振るう感覚。
踏み込みの角度。
刃の軌道。
(……うん)
体を起こし、軽く剣を振る。
やはり違和感はない。
触れた物の記憶を読む――それがリュナの力だった。
剣に触れれば、過去の使い手の技が分かる。
戦場の感覚すら、身体に流れ込む。
だから戦うことは怖くない。
強い。
それだけは、はっきり分かる。
……それなのに。
胸の奥に、理由の分からない冷たさが残っていた。
(なんでだろ……)
剣を鞘に収めたとき。
「おはよう、リュナ」
背後から声がした。
振り向くと、アレンが立っていた。
朝日を受けて、銀髪が淡く光る。
穏やかな青い瞳がこちらを見ていた。
王国一の剣士。
そして――勇者。
「よく眠れた?」
「うん……たぶん」
アレンは小さく笑った。
「顔がちょっと固い」
「そう?」
「初めての遠征だからな。緊張するのは普通だ」
そう言って、肩を軽く叩く。
それだけで、不思議と胸が落ち着く。
(……アレンがいるから)
そう思うと、安心できた。
自分でも気づかないうちに、彼の存在にすがっていることに、
リュナはまだ気づいていなかった。
◇
――アレンにとって、朝はいつも静かすぎた。
森の澄んだ空気。
小鳥の声。
穏やかな朝。
それなのに、胸の奥だけが重い。
リュナの背中を見つめながら、同じ思考が何度も巡る。
……この子を、壊してしまった。
小さな角。
本来なら、隠しきれない“魔族の証”。
アレンは指先にわずかに魔力を巡らせる。
視界が歪み、世界が書き換えられる。
角は、見えなくなる。
肌の色も、人間のそれに溶け込む。
――幻覚。
もう何年も続けてきた、日常の行為。
(……今日も、だ)
ふと、あの夜の光景がよぎる。
炎。
悲鳴。
魔族の影。
そして――妹の顔。
王国の奥深く。
石の部屋に閉じ込められた、小さな背中。
……選べなかった。
魔族への憎しみと、妹の命。
天秤にかけるまでもない。
だから今日も、嘘を重ねる。
(……ごめんな)
声には出せない。
それでも、心の中で何度も謝り続けていた。
「おーい! アレン!」
森の向こうからガルドの声が響いた。
大盾を背負った大男がこちらに手を振っている。
「そろそろ出るぞ!」
アレンは振り返る。
「全員起きてるか?」
「もちろん!」
レイナがぴょんと跳ねる。
エルフの少女は弓を肩にかけていた。
「今日も魔族退治でしょ? 任せて!」
ミラが苦笑する。
「元気なのはいいけれど、油断は禁物よ」
黒髪の魔導士は静かに杖を整える。
ガルドが笑う。
「作戦はどうする、アレン」
自然な流れだった。
誰も疑わない。
このパーティの判断は――アレンが下す。
◇
アレンは森を見渡す。
地形。
風。
足跡。
一瞬で状況を読み取る。
「魔族は三、四体。斥候だな」
ガルドが眉を上げる。
「見えるのか?」
「気配だ」
そして短く指示を出す。
「ガルド、前衛」
「おう」
「レイナは右から援護」
「了解!」
「ミラは後方詠唱」
「分かったわ」
最後に、リュナを見る。
「リュナは俺と中央」
「うん」
全員が頷く。
誰一人、迷わない。
それが、この勇者パーティだった。
森の奥で、影が動いた。
魔族。
黒い皮膚。
鋭い牙。
三体。
「来るぞ」
ガルドが盾を構える。
魔族が跳んだ。
だが、その瞬間。
銀の閃光が走る。
――アレンだった。
踏み込みが、速い。
一歩。
剣が振り抜かれる。
魔族の腕が宙を舞った。
二体目が襲いかかる。
だがアレンは動じない。
剣を逆手に持ち替え、刃を滑らせる。
首筋。
一閃。
血飛沫が散った。
レイナが目を丸くする。
「相変わらず速い!」
「まだ二体いるぞ」
アレンは静かに言う。
その声に、全員が動いた。
ガルドが盾で魔族を弾く。
「今だ!」
リュナが飛び出した。
剣に触れた瞬間、記憶が流れ込む。
戦場。
剣戟。
無数の戦い。
(分かる)
身体が自然に動く。
踏み込み。
回転。
斬撃。
魔族の胸が裂けた。
残り一体。
ミラの魔法が炸裂する。
炎が魔族を飲み込んだ。
戦闘は、一分もかからず終わった。
森に静けさが戻る。
レイナが口笛を吹く。
「勇者コンビ強すぎでしょ」
ガルドが笑う。
「俺の出番ねぇな」
アレンは剣を収める。
「油断するな。斥候がいるなら、本隊も近い」
リュナは剣を下ろし、小さく息を整えた。
……強いのに。
守れているのに。
不安だけが、消えなかった。
夜。
焚き火の音だけが、静かに響いている。
見張りの順番で起きているのは、リュナとアレンだけだった。
「……ねえ、アレン」
「どうした?」
「私……魔族、怖いんだ」
不意にこぼれた言葉。
「強いのは分かってる。戦えるのも。でも……」
言葉が続かない。
アレンはしばらく焚き火を見つめてから、静かに言った。
「怖くていい」
優しい声だった。
「怖さを感じられるのは、生きてる証拠だ」
リュナは小さく笑う。
「……そっか」
その言葉だけで、胸が少し軽くなる。
(アレンがいるから)
そう思ってしまう自分に、疑問を持たなかった。
――アレンは、限界を感じていた。
焚き火越しに見るリュナの横顔。
怯えと信頼が入り混じった、無防備な表情。
……俺が作った。
恐怖も。
不安も。
依存も。
妹の命がある限り、やめられない。
それでも。
(こいつは……魔族とは思えない)
いや。
魔族なのに。
それが、何よりも苦しかった。
「……もうすぐだ」
誰に言うでもなく呟く。
魔王を倒せば。
旅が終われば。
すべてが終わる――はずだった。
夜明け前。
森がざわめいた。
「……来る!」
アレンの声で、全員が跳ね起きる。
現れたのは、上位魔族。
数は十を超えていた。
恐怖が胸を締めつける。
リュナの足が、一瞬止まる。
(……怖い)
それでも剣を握る。
「……私は、負けない」
震えを抱えたまま、前へ。
剣が舞う。
恐怖と強さが、同時に存在する。
最後の一体が倒れ、森が静まる。
倒れていた魔族が、かすかに目を開いた。
リュナを見る。
その目が、見開かれた。
「……な……」
かすれた声。
「なぜ……ここに」
魔族は震える声で言った。
「魔王さま……の……」
その瞬間。
銀の閃光が走った。
アレンの剣だった。
魔族の首が落ちる。
静寂。
レイナが首をかしげる。
「今、なんか言ってなかった?」
アレンは淡々と言う。
「死に際の戯言だ」
それ以上、誰も気にしなかった。
……リュナ以外は。
胸の奥が、強くざわめく。
(……今の……)
でも。
アレンを見ると、不安が消える。
彼は穏やかな顔をしていた。
「行こう」
リュナは小さく頷く。
「……うん」
五人は再び歩き出す。
朝日が森を照らしていた。
リュナはまだ知らない。
自分が魔王の娘であることも。
恐怖が植え付けられたものであることも。
アレンは知っている。
すべてを。
それでも歩き続ける。
――この旅の終わりに、何が壊れるのかを、分かっていながら。
風が吹き、草が揺れた。
偽りの記憶とともに、旅は続いていく。




