2.23
エルナは、剣を抜いた。
音は、小さい。
構えは、戦闘用ではない。
相手に隙を作らせる必要も、
駆け引きもない。
ただ――
終わらせるための構えだった。
「……行きます」
その声に、震えはなかった。
大長老は、目を閉じる。
「頼んだぞ」
その言葉のあと――
ゆっくりと、手が伸びた。
枯れ枝のような手。
だが、その指先が
エルナの手の甲に触れる。
驚くほど、温かかった。
「あとは任せた」
短い言葉だった。
だが――
それで、十分だった。
エルナは、息を吸う。
そして。
刃は、正確に、
命を断つ位置へと入った。
血は、ほとんど飛ばない。
ただ――
重さが、腕に伝わる。
そして、消える。
◇
――その瞬間だった。
胸の奥に、
知らない感覚が流れ込んでくる。
言葉にならない知識量。
長い時間の積み重ね。
森の呼吸。
弓の技術、生態系、里の歴史。
精霊との距離。
結界の張り方。
理解ではない。
それは――
「思い出す」感覚だった。
(……これが)
エルナは、膝をつきそうになる。
だが、歯を食いしばる。
殺したから、力が入るのではない。
今回は何かが違う。
――託された。
最後に触れた、あの手が。
そう言っている気がした。
◇
レイナが、静かに近づく。
大長老の亡骸の前で、膝をついた。
「……見届けました」
声は、震えていない。
「里は、
この選択を、忘れない」
ミラは、少し離れた場所で、
手を組んで祈っていた。
エルナは、剣を鞘に戻す。
手は、まだ重い。
だが、
逃げたいとは思わなかった。
◇
朝霧が、ゆっくりと晴れていく。
光が、森に差し込む。
新しい一日が、
何事もなかったように始まろうとしていた。
エルナは、空を見上げた。
「……守るために使う」
小さく、だが確かな声。
それは、
誰かに聞かせるためではない。
自分自身に、
言い聞かせる言葉だった。
刃は下ろされた。
だが、
この選択の重さは――
ここから始まる。
◇
葬列は、静かだった。
泣き声は、ない。
嘆きも、怒号もない。
エルフの里では、
長く生きた者の死を、声で悼まない。
その代わりに、
森そのものが、わずかに重くなる。
◇
大長老の亡骸は、
白布に包まれ、森の奥へと運ばれていく。
根が絡み合った、古い大樹の前。
そこが、弔いの場所だった。
年老いたエルフたちは、
一人ずつ、足を止める。
祈りではない。
感謝を、短く告げるだけ。
「長い間、ありがとうございました」
それ以上の言葉は、誰も口にしない。
◇
若者たちは、列の後ろにいた。
昨日、エルナに挑み、
一瞬で倒された者たちだ。
彼らは、地面を見ている。
拳は、握られていない。
悔しさも、怒りも、表に出さない。
――出せない。
彼らは、知っている。
この死が、
里を守るための選択だったことを。
そして、
それを引き受けたのが、
人間の剣士だったことを。
◇
エルナは、列の端に立っていた。
正面に出る資格はない。
そう、自分で決めていた。
だが、
年老いたエルフの一人が、
静かに歩み寄ってくる。
「……すまないねぇ、感謝します。」
その言葉に、
エルナは、返事ができなかった。
感謝される理由が、
どうしても、理解できない。
「殺したのに」
喉まで出かかった言葉を、
飲み込む。
老人は、穏やかに微笑んだ。
「“殺すしかない”と知っていて、
逃げなかった」
それだけで、十分だった。
◇
大樹の根元に、
亡骸は静かに横たえられる。
土は、被せない。
時間をかけて、
森に還す。
それが、エルフの弔いだ。
風が、一度だけ強く吹いた。
葉が、ざわめく。
それは、
別れの合図のようだった。
◇
葬送が終わると、
里は、すぐに日常へ戻っていく。
誰も、足を止めない。
誰も、振り返らない。
それが、
この森の生き方だった。
◇
里の外れ。
出立の準備をする三人。
レイナは、最後に振り返る。
大樹の影に、
若者たちの姿が見えた。
誰も、手を振らない。
だが、
視線だけは、確かにこちらを向いている。
「……任せたって顔ね」
小さく呟く。
ミラが、頷く。
「ええ。
重いけど、逃げられない」
◇
エルナは、剣の柄に手を置いた。
昨日とは、違う重さ。
力が増えた感覚は、ある。
だが、それ以上に――
「預かった」
そう、はっきり分かる。
誰かの人生を、
丸ごと。
◇
レイナが、隣に立つ。
「約束する」
エルナを見ず、
森を見たまま言う。
「私が、大長老になる日が来たら」
少しだけ、言葉を区切る。
「その時は、
あなたが背負ったものを、
私が引き取るからね」
それは、誓いだった。
◇
三人は、森を離れる。
足取りは、静かだ。
だが、確かに前へ進んでいる。
エルナは、振り返らなかった。
振り返れば、
逃げ道が見えてしまう気がしたから。
それでも――
森の気配は、
確かに背中を押していた。
葬送は終わった。
約束は、交わされた。
そして旅は、
また始まる。
――今度は、
誰かを守るための力を携えて。




