2.19
夜明け前の森は、
最も古い時間を思い出す。
音がなく、
色も薄く、
ただ“在る”だけの世界。
森がまだ名前を持たなかった頃のような、
そんな静けさだった。
大長老は、ご神木の根元に寄りかかりながら座っていた。
かつて精霊と向き合った頃の力は、もうない。
指先は痩せ、
呼吸は浅い。
(……また、一日が始まるか)
そう思うたび、
次が“ある”保証がないことを、身体が教えてくる。
◇
「目覚めの刻には、まだ早い」
森の奥から、声がした。
耳で聞くものではない。
胸の奥に、直接触れるような感覚。
――大精霊。
百年に一度、完全に目覚める存在。
それ以外の時間は、半ば眠りながら森を支えている。
「分かっておる」
大長老は、ゆっくりと息を吐いた。
「だが、わしの方が先に尽きる」
精霊は答えない。
否定もしない。
それが、肯定だと分かっていた。
◇
かつて、森は違った。
結界は薄く、
実りは不安定で、
エルフは――
精霊に守られていたわけではない。
ただ、
“許されて住んでいた”だけだった。
大長老は、若かった。
先代の大長老から、
精霊との対話の仕方を教わった。
言葉ではない。
呪文でもない。
“聞き方”だ。
風の流れを読む。
木々の緊張を感じる。
怒りと、悲しみと、諦めを区別する。
それは技術であり、
同時に感覚だった。
それによって、
気まぐれな精霊も、
少しずつエルフに心を向けるようになった。
◇
――だが。
「次の者が、いなかった」
その言葉を、
誰に向けるでもなく零す。
教えていた後継者。
自分の息子。
森を歩くのが好きで、
精霊の気配に、よく立ち止まる子だった。
先代魔王の侵攻。
魔族と人間が衝突し、
戦火が広がった頃。
森の近くの村。
人間を知るために移り住んでいた、
好奇心旺盛な幼馴染の娘が住む村。
煙が上がった。
それを見た瞬間。
あの子は、走り出していた。
止める声も、
危険も、
振り切って。
――戻らなかった。
「……わしの、慢心じゃ」
精霊の気配が、かすかに揺れる。
◇
それ以来。
大長老は一人で役目を背負ってきた。
後継者を選べなかったというのもあったかもしれない。
だが――
百年周期の儀式。
精霊との対話。
結界の綻びの確認。
森の実りの調整。
里をまとめること。
すべてが、
一人の“個”に依存していた。
(本来、これは)
(継がせるものだ)
知識も。
感覚も。
時間をかけて、
渡していくものだった。
だが。
教える体力も、
待つ時間も。
もう残っていない。
◇
「だから、あの娘だ」
大長老は、静かに言った。
エルナ。
殺して奪う力を持つ、人間。
「……残酷か?」
精霊は、しばらく沈黙した。
やがて。
ひとつの感情が流れ込む。
――哀しみ。
だが、拒絶ではない。
「森は、命を選り好みせぬ」
「与え、奪われ、巡る」
「それが理だ」
大長老は、目を閉じた。
「ならば」
「わしの命も、その巡りの一つとして使え」
◇
精霊の“声”が、わずかに強くなる。
――だが、それは継承ではない。
――人間が扱ってよい技術でもない。
大長老は頷いた。
「分かっておる」
「だからこそ、約束させる」
エルナから。
レイナへ。
技術として。
知識として。
普通の精霊は技術さえあれば対話ぐらいできるだろう。
ただし大精霊との対話は、
術を知ってもエルフにしかできない。
それでも、
橋渡しはできる。
◇
視線を、森の奥へ向ける。
そこには。
弓を持ち、
迷いながらも立ち続けている若いエルフの気配。
レイナ。
(……あの子が)
(次の“大長老”になる)
才能はある。
だが、エルフにしてはまだ若い。
それに優しすぎる。
里をまとめるには、
まだ未熟だ。
それでも。
他に任せるよりはあの子しかいない。
◇
「エルナよ」
彼女は、まだここにいない。
それでも語りかける。
「おぬしに頼むのは、救いではない」
「赦しでも、正義でもない」
杖を握る手に、力が入る。
「ただ――」
「森を続けさせてほしいという」
「老いぼれの懇願じゃ」
精霊が、静かに同意する。
夜明けが近い。
森は、何事もなかったように
新しい一日を迎えようとしている。
その裏で。
一つの命が、
終わりを選ぼうとしていることも知らずに。
夜は、もうすぐ終わる。




