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2.19

夜明け前の森は、

最も古い時間を思い出す。


音がなく、

色も薄く、

ただ“在る”だけの世界。


森がまだ名前を持たなかった頃のような、

そんな静けさだった。


大長老は、ご神木の根元に寄りかかりながら座っていた。


かつて精霊と向き合った頃の力は、もうない。


指先は痩せ、

呼吸は浅い。


(……また、一日が始まるか)


そう思うたび、

次が“ある”保証がないことを、身体が教えてくる。



「目覚めの刻には、まだ早い」


森の奥から、声がした。


耳で聞くものではない。

胸の奥に、直接触れるような感覚。


――大精霊。


百年に一度、完全に目覚める存在。

それ以外の時間は、半ば眠りながら森を支えている。


「分かっておる」


大長老は、ゆっくりと息を吐いた。


「だが、わしの方が先に尽きる」


精霊は答えない。


否定もしない。


それが、肯定だと分かっていた。



かつて、森は違った。


結界は薄く、

実りは不安定で、

エルフは――


精霊に守られていたわけではない。


ただ、

“許されて住んでいた”だけだった。


大長老は、若かった。


先代の大長老から、

精霊との対話の仕方を教わった。


言葉ではない。

呪文でもない。


“聞き方”だ。


風の流れを読む。

木々の緊張を感じる。

怒りと、悲しみと、諦めを区別する。


それは技術であり、

同時に感覚だった。


それによって、

気まぐれな精霊も、

少しずつエルフに心を向けるようになった。



――だが。


「次の者が、いなかった」


その言葉を、

誰に向けるでもなく零す。


教えていた後継者。


自分の息子。


森を歩くのが好きで、

精霊の気配に、よく立ち止まる子だった。


先代魔王の侵攻。


魔族と人間が衝突し、

戦火が広がった頃。


森の近くの村。


人間を知るために移り住んでいた、

好奇心旺盛な幼馴染の娘が住む村。


煙が上がった。


それを見た瞬間。


あの子は、走り出していた。


止める声も、

危険も、

振り切って。


――戻らなかった。


「……わしの、慢心じゃ」


精霊の気配が、かすかに揺れる。



それ以来。


大長老は一人で役目を背負ってきた。


後継者を選べなかったというのもあったかもしれない。


だが――


百年周期の儀式。

精霊との対話。

結界の綻びの確認。

森の実りの調整。


里をまとめること。


すべてが、

一人の“個”に依存していた。


(本来、これは)


(継がせるものだ)


知識も。

感覚も。


時間をかけて、

渡していくものだった。


だが。


教える体力も、

待つ時間も。


もう残っていない。



「だから、あの娘だ」


大長老は、静かに言った。


エルナ。


殺して奪う力を持つ、人間。


「……残酷か?」


精霊は、しばらく沈黙した。


やがて。


ひとつの感情が流れ込む。


――哀しみ。


だが、拒絶ではない。


「森は、命を選り好みせぬ」


「与え、奪われ、巡る」


「それが理だ」


大長老は、目を閉じた。


「ならば」


「わしの命も、その巡りの一つとして使え」



精霊の“声”が、わずかに強くなる。


――だが、それは継承ではない。

――人間が扱ってよい技術でもない。


大長老は頷いた。


「分かっておる」


「だからこそ、約束させる」


エルナから。


レイナへ。


技術として。

知識として。


普通の精霊は技術さえあれば対話ぐらいできるだろう。


ただし大精霊との対話は、

術を知ってもエルフにしかできない。


それでも、

橋渡しはできる。


視線を、森の奥へ向ける。


そこには。


弓を持ち、

迷いながらも立ち続けている若いエルフの気配。


レイナ。


(……あの子が)


(次の“大長老”になる)


才能はある。


だが、エルフにしてはまだ若い。


それに優しすぎる。


里をまとめるには、

まだ未熟だ。


それでも。


他に任せるよりはあの子しかいない。



「エルナよ」


彼女は、まだここにいない。


それでも語りかける。


「おぬしに頼むのは、救いではない」


「赦しでも、正義でもない」


杖を握る手に、力が入る。


「ただ――」


「森を続けさせてほしいという」


「老いぼれの懇願じゃ」


精霊が、静かに同意する。


夜明けが近い。


森は、何事もなかったように

新しい一日を迎えようとしている。


その裏で。


一つの命が、

終わりを選ぼうとしていることも知らずに。


夜は、もうすぐ終わる。

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