2.18
夜の森は、昼よりも饒舌だ。
風が枝を揺らし、
葉が擦れ、
遠くで獣が息をする。
それらすべてが、
「生きている」と主張している。
エルナは、大樹から少し離れた場所に座っていた。
焚き火はない。
火を見る余裕が、今はなかった。
膝の上に置いた剣。
鞘から抜いてもいないのに、
そこに“選択”がある気がして、視線を落とせずにいる。
(殺して、奪う)
いつものことのはずだった。
魔族を斬るとき。
敵を倒すとき。
迷いはなかった。
なのに――
(今回は敵じゃない)
その事実が、思考を鈍らせる。
◇
牢獄を出た日のことを、思い出す。
鉄の匂い。
冷たい床。
久しぶりに外へ出たときの光。
あのとき、自分は何を思った?
――生きている。
それだけだった。
誰かを救うためでも、
何かを背負うためでもない。
「生き延びた」
ただ、それだけ。
(……いつからだろう)
剣を振る理由が、
“自分のため”じゃなくなったのは。
◇
大長老の言葉が、頭の奥で反芻される。
――利用しようとしているだけ。
優しさでも、信仰でもない。
必要だから、そうする。
その割り切りが、
逆に誠実に思えた。
(でも)
胸の奥が、重い。
自分は、殺すことでしか、
何かを受け取れない。
それを“継承”と呼んでいいのか。
奪っているだけじゃないのか。
◇
ふと、感覚が研ぎ澄まされる。
遠くの足音。
葉を踏む癖。
風に混じる、微かな魔力。
(……レイナ)
近づいてくる気配に、
エルナは顔を上げなかった。
「眠れない?」
いつもより少し軽い声。
「……はい」
レイナは、わざとらしく肩をすくめながら、少し離れた場所に腰を下ろした。
「やっぱり?
私もなのよね」
小さく笑う。
「ねえねえ、こういうときってさ。
森が妙にうるさく感じない?」
エルナは少しだけ耳を澄ます。
「……確かに」
「でしょ?
昼より喋るのよ、この森」
軽い調子。
けれど、その声の奥に、わずかな硬さが混じっていた。
◇
「ねえ、エルナ」
「はい」
「別に断ってもいいのよ」
レイナは、夜の森を見ながら言う。
「私はその決断を、あなたを責めない」
エルナは何も言わない。
「むしろね」
少しだけ笑う。
「ここまで付き合ってくれただけで、十分すぎるくらいよ」
風が葉を揺らす。
「あなたがいなかったら、
里はとっくに詰んでたもの」
少し大げさな言い方。
けれど、嘘ではない。
「だから」
レイナは軽く言った。
「エルフのために、あなたが背負う必要なんてないの」
エルナは、ようやくレイナを見る。
「……でも」
声が低くなる。
「背負えるのに、背負わなかったら」
「それは、逃げではありませんか」
レイナは、すぐには答えなかった。
百年以上生きたエルフの沈黙は、
短くても重い。
やがて、肩をすくめる。
「逃げ、かもしれない」
「でも、生き方でもあるわ」
エルナは視線を落とす。
◇
「私」
ぽつりと、言葉が落ちる。
「殺すこと自体は、嫌なんです」
「……ええ」
レイナは静かに頷く。
「でも」
剣の柄を強く握る。
「奪った力を使うことには、抵抗を覚えない」
「奪った後は、もう自分の力だと思ってしまう」
「それが、怖い」
レイナは息を飲んだ。
エルナは続ける。
「嫌悪と、冷静さが、同時にある」
「割り切れてしまう自分がいる」
「それが正しいのか、分からない」
◇
レイナは、少しだけ笑った。
無理に、明るく。
「それなら」
「あなたは、まだ大丈夫よ」
エルナが顔を上げる。
「……どういう意味ですか」
「だってさ」
レイナは指で森を指す。
「抵抗ないって言いながら、こんなに悩んでる」
「それ、ちゃんと気にしてる証拠でしょ?」
夜風が二人の間を通り抜ける。
「何も感じなくなったら」
少しだけ真顔になる。
「そのときは、本当に危ないのかもしれない」
そして、また笑う。
「でも今は違う」
「迷ってるでしょ?」
「それって、ちゃんと選ぼうとしてるってこと」
「流されてないことはいいことだと思うわ」
その言葉が、
胸の奥に静かに染みた。
◇
エルナは立ち上がった。
剣を手に取る。
抜かない。
ただ、持つ。
「……決めきれない」
「うん」
レイナは軽く頷く。
「でも」
エルナは森を見渡す。
この森を支えるもの。
ここで生きる者たち。
「“前向きに使う”可能性があるなら」
「私は、それを否定したくない」
レイナは、しばらく黙っていた。
そして、小さく笑う。
「そっか」
それだけ言った。
◇
その夜。
エルナは初めて、
“大長老を殺す瞬間”を想像した。
刃を振るう感触。
目の前で生気を失う大長老。
そして人の力を奪う感覚。
胸が痛む。
それでも。
(……逃げない)
まだ答えは出ていない。
けれど――
迷いは、恐れではなく、
責任へと変わりつつあった。
森は、静かに息をしている。
その呼吸の重さを、
エルナは確かに感じていた。
そして。
レイナは、横で空を見上げながら小さく呟いた。
「ほんと……」
誰にも聞こえない声で。
「重たい役、押し付けてくれるんだから」
それでも。
その声には、どこか安心したような響きが混じっていた。
森は、ただ静かに揺れている。




