2.17
大樹の内部は、ひどく静かだった。
外の森は、風に揺れ、葉を鳴らし、確かに生きている。
その気配が濃い分だけ、ここだけが取り残されたように感じられた。
エルナは床に膝をついていた。
剣は外してある。
――頼まれたわけではない。
それでも、そうするべきだと思った。
理由は、自分でも分からない。
「顔を上げなさい」
弱々しいが、芯の通った声。
大長老は、横たわったままエルナを見ていた。
「あなたが……大長老様?」
「そう呼ばれておる」
言葉に飾りはない。
時間の残り少ない者の、まっすぐな話し方だった。
「率直に聞こう」
長老は静かに続ける。
「お前は、人を殺すことで、その力や技を奪えるな」
空気が、わずかに張り詰めた。
レイナが何か言おうとしたが、
長老は視線だけでそれを制した。
エルナは、否定しなかった。
「……はい」
短く、静かな返事。
「嫌な言い方をするなら、呪いのような力です」
「そうだな」
長老は、わずかに笑ったようだった。
「だが森にとっては――
最後の選択肢になり得る」
◇
長老は、ゆっくりと語り始めた。
百年ごとに目覚める、大精霊。
里のご神木に宿る存在。
その精霊と“対話する方法”。
儀式の手順。
魔力の流れ。
森と同調する呼吸。
そして――
失敗すれば、森そのものを枯らしかねない技。
「これは、記録に残せぬ」
「言葉でも、伝えきれぬ」
「感覚でしか継承できぬ技術だ」
エルナは、ただ聞いていた。
「だが」
長老は、ゆっくり目を閉じる。
「もう、教える時間がない」
沈黙が落ちる。
やがて、長老は目を開いた。
「そこでだ」
声が、わずかに強くなる。
「お前に、わしを殺してもらいたい」
言葉は、まっすぐだった。
逃げも、飾りもない。
◇
エルナの喉が、小さく鳴る。
「……それは」
言葉が続かない。
「殺して奪うのは、身体能力だけではないな」
長老は理解していた。
「知識、経験」
「精霊と対話するときの感覚も、得られるはずだ」
「……はい」
「よし、それはいい」
あまりにも静かな肯定だった。
「これはエルフの問題だった」
長老は続ける。
「お前には、本来関係のない話だ」
「お前の力を利用しようとしているということだ」
その言葉の方が、かえって重かった。
「拒否してもよい」
長老ははっきりと言った。
「その場合、里は――
百年を待たず衰えるだろう」
「結界は弱まり」
「森の実りは減り」
「争いが増える」
「大精霊との会話、儀式とはそのくらい重要なことだ」
長老はそこで言葉を止めた。
「それでも、選ぶのはお前だ」
◇
エルナは拳を握った。
(殺して、奪う)
それは今まで――
敵に向けて使ってきた力だった。
守るために使うと誓った。
誰かに殺しを求められたことはない。
「……ひとつ、聞いてもいいですか」
「何でも聞け」
「あなたを殺す以外に、方法はないのですか」
長老は迷わなかった。
「ない」
即答だった。
「後継者は大事に育ててきた。
でも死んだ。何も残っておらん」
エルナは静かに息を吸う。
「では」
視線を上げる。
「これは正しい行いですか」
「皆が、納得しますか」
長老は少し考えた。
そして言った。
「正しいとは言えん」
静かな声だった。
「だが、わしの願いだ」
「納得せぬ者もおるだろう」
「それでも、文句は言わせん」
長老は、かすかに笑った。
「わしはどのみち、もう長くない」
「明日かもしれん」
「三日後かもしれん」
「それでも、この方法でエルフが救われるなら」
一度、目を閉じる。
「恥だと言われても構わん」
「だが、わしは其方に感謝しよう」
静かに、言い切った。
「それは、誰かの命を守る行為だからだ」
◇
レイナは黙って聞いていた。
口を挟む資格がないと、
自分で分かっている。
「……私が、それを奪ったら」
エルナが言う。
声は震えていない。
「私は、エルフの里に縛られることになりませんか」
「確かに全ての知識や技術は知ることになるだろう。
しかし其方はエルフではない。
縛られることはないと誓おう。
そして今後、森やエルフのことは彼女に任せたい」
視線がレイナに向く。
「繋ぐのは、あやつだ」
レイナの肩がわずかに揺れた。
「奪った技術は、レイナに継承してほしい」
「今あやつは、別の問題に関わっておる」
「それが終わり、里へ戻ったとき」
長老は静かに言った。
「望むなら、大長老として迎えよう」
レイナは何も言えなかった。
「それまでの間」
長老はエルナを見る。
「お前には“代理継承者”としていてほしい」
そして、最後に言った。
「安心しろ」
「お前を選んだのは、力だけではない」
静かな声。
「レイナが、お前を連れてきたからだ」
「――あやつが信じた者なら、わしも信じる」
◇
エルナは目を閉じた。
命を奪うことよりも。
それを――
託されることの方が重い。
「……少し、考えさせてください」
「当然だ」
長老は満足そうに頷く。
「急がせはせぬ」
「だが、時間は残っておらん」
◇
大樹の外に出た瞬間。
森の音が、一気に戻ってきた。
風。
葉のざわめき。
遠くの鳥の声。
「……ごめんなさい」
エルナが小さく言う。
「私、すぐに答えを出せなくて」
「ごめんなさいは私のセリフよ。
大丈夫」
レイナは言った。
「簡単に決められることじゃないじゃない」
エルナは森を見つめる。
長く息を吐く。
「……でも」
剣の柄に、そっと触れた。
「殺すためじゃなく」
小さく呟く。
「支えるために使うなら」
その先の言葉は、まだ形にならない。
だが。
迷いは確かに――
前を向き始めていた。
森は静かに息をしている。
選択を、待つように。




