2.16
風向きが、いい。
「よしっ」
レイナは弓を構えたまま、小さく笑った。
森の匂い。
湿った土の感触。
葉の揺れ方。
異常はない。
いつも通りの森だ。
――そのはずだった。
枝の隙間をすり抜けるように、
小さな影がふわりと降りてくる。
鳥じゃない。
虫でもない。
淡い光をまとった、掌ほどの精霊。
「……あれ?」
弓を少し下げる。
「え、なになに? 」
精霊は迷いなく、レイナの肩へと降り立った。
《レイナ》
澄んだ声が、頭の奥に直接響く。
レイナは目を瞬かせる。
《大長老がお呼びです》
「……え」
軽い声が、喉で止まる。
精霊は胸元に触れ、淡く光り――消えた。
静寂。
「……そっか」
小さく息を吐く。
さっきまでの軽さが、少しだけ薄れる。
(正式な呼び出し、だよね)
森の精霊を使う伝達は、滅多にない。
緊急時か――里そのものに関わる時だけ。
理由を考えるまでもなかった。
「ごめんね、みんな!」
振り返りながら、いつもの調子で言う。
「里に戻る! 超急ぎみたい。」
エルナが目を瞬かせる。
「急ですね」
「うん。大長老様直々なの!」
声は明るい。
けれど、足取りは早い。
その変化に、エルナはそれ以上聞かなかった。
◇
エルフの里は、いつもと同じ姿をしていた。
木々に溶け込む家々。
地を踏み固めない浮き橋。
精霊の通り道を避けた結界。
けれど。
「……あれ?」
レイナは足を止める。
静かすぎる。
人はいる。
生活の気配もある。
なのに。
里全体が、息を潜めている。
「レイナ様」
若いエルフが駆け寄り、深く頭を下げる。
「大長老様が、すぐに」
「うん、分かってる」
答えながら、視線を巡らせる。
目が合うと、皆すぐ逸らす。
声がない。
笑い声も。
子どもたちのはしゃぐ音も。
(……やだな、この感じ)
胸がざわつく。
「……急がなきゃ」
小さく呟いた。
◇
ご神木の内部へ足を踏み入れた瞬間、
空気が変わる。
重い。
香の匂い。
治癒術式の光。
そして――衰弱の気配。
「来たか、レイナ」
弱々しい声。
「……大長老様」
駆け寄り、膝をつく。
「急に呼び戻して悪かったな」
「いえ! そんな!」
反射的に明るく返す。
けれど視線が、動かない。
かつて誰よりも力強かった長老が、
床に横たわっている。
細い呼吸。
それでも目だけは鋭い。
「時間が、ない」
その一言で、空気が凍る。
「大精霊の目覚めが近い」
レイナの指先がわずかに震える。
「そうですか。では儀式は――」
「できぬ」
即答。
「教える力が残っておらん」
胸の奥が重くなる。
精霊との対話は、知識だけじゃ足りない。
感覚を、時間をかけて繋ぐものだ。
「後継者は……」
言った瞬間、遅かったと気づく。
「死んだ」
短い言葉。
「外にいる同胞を救いに向かい……戻らなかった」
沈黙。
レイナは唇を噛む。
◇
「……私には」
声が、かすれる。
「務まりません」
「分かっておる」
長老は静かに目を閉じる。
「背負わせるつもりはなかった」
そして。
「お前は、繋ぐ者だ」
息が止まる。
「森と人を。過去と未来を」
ゆっくりと視線が扉へ向く。
「……剣士の娘を連れてきたな」
レイナの心臓が強く打つ。
「はい、エルナです」
「殺して奪う力を持つ者」
全てが、繋がる。
「それは――」
「良い手段でないのは分かっている。」
先に告げられる。
「誇れぬ。正しくもない」
それでも。
「森が死ぬよりは、ましだ」
静かな宣告。
◇
外ではエルナが、空を見上げている。
自分が、
森の運命の秤に乗せられているとも知らずに。
レイナは拳を握る。
明るく振る舞うことも忘れるほど、強く。
(違う)
正しい選択肢なんて、ない。
用意されるのはいつも、
痛みの大きさを比べる問いだけ。
それでも。
ここに呼ばれた意味は一つ。
逃げるな、ということ。
レイナは目を閉じ、深く息を吸った。
胸が痛む。
怖い。
迷っている。
それしかない。
――そしてエルナを連れてきてしまったのは、自分だ。
少しの後悔と静かな覚悟が、
ゆっくりと根を張っていった。
森は、何も語らない。
ただ選択の時だけを、
静かに差し出していた。




