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2.16

風向きが、いい。


「よしっ」


レイナは弓を構えたまま、小さく笑った。


森の匂い。

湿った土の感触。

葉の揺れ方。


異常はない。


いつも通りの森だ。


――そのはずだった。


枝の隙間をすり抜けるように、

小さな影がふわりと降りてくる。


鳥じゃない。

虫でもない。


淡い光をまとった、掌ほどの精霊。


「……あれ?」


弓を少し下げる。


「え、なになに? 」


精霊は迷いなく、レイナの肩へと降り立った。


《レイナ》


澄んだ声が、頭の奥に直接響く。


レイナは目を瞬かせる。


《大長老がお呼びです》


「……え」


軽い声が、喉で止まる。


精霊は胸元に触れ、淡く光り――消えた。


静寂。


「……そっか」


小さく息を吐く。


さっきまでの軽さが、少しだけ薄れる。


(正式な呼び出し、だよね)


森の精霊を使う伝達は、滅多にない。

緊急時か――里そのものに関わる時だけ。


理由を考えるまでもなかった。


「ごめんね、みんな!」


振り返りながら、いつもの調子で言う。


「里に戻る! 超急ぎみたい。」


エルナが目を瞬かせる。


「急ですね」


「うん。大長老様直々なの!」


声は明るい。

けれど、足取りは早い。


その変化に、エルナはそれ以上聞かなかった。



エルフの里は、いつもと同じ姿をしていた。


木々に溶け込む家々。

地を踏み固めない浮き橋。

精霊の通り道を避けた結界。


けれど。


「……あれ?」


レイナは足を止める。


静かすぎる。


人はいる。

生活の気配もある。


なのに。


里全体が、息を潜めている。


「レイナ様」


若いエルフが駆け寄り、深く頭を下げる。


「大長老様が、すぐに」


「うん、分かってる」


答えながら、視線を巡らせる。


目が合うと、皆すぐ逸らす。


声がない。


笑い声も。


子どもたちのはしゃぐ音も。


(……やだな、この感じ)


胸がざわつく。


「……急がなきゃ」


小さく呟いた。



ご神木の内部へ足を踏み入れた瞬間、

空気が変わる。


重い。


香の匂い。

治癒術式の光。

そして――衰弱の気配。


「来たか、レイナ」


弱々しい声。


「……大長老様」


駆け寄り、膝をつく。


「急に呼び戻して悪かったな」


「いえ! そんな!」


反射的に明るく返す。


けれど視線が、動かない。


かつて誰よりも力強かった長老が、

床に横たわっている。


細い呼吸。


それでも目だけは鋭い。


「時間が、ない」


その一言で、空気が凍る。


「大精霊の目覚めが近い」


レイナの指先がわずかに震える。


「そうですか。では儀式は――」


「できぬ」


即答。


「教える力が残っておらん」


胸の奥が重くなる。


精霊との対話は、知識だけじゃ足りない。

感覚を、時間をかけて繋ぐものだ。


「後継者は……」


言った瞬間、遅かったと気づく。


「死んだ」


短い言葉。


「外にいる同胞を救いに向かい……戻らなかった」


沈黙。


レイナは唇を噛む。



「……私には」


声が、かすれる。


「務まりません」


「分かっておる」


長老は静かに目を閉じる。


「背負わせるつもりはなかった」


そして。


「お前は、繋ぐ者だ」


息が止まる。


「森と人を。過去と未来を」


ゆっくりと視線が扉へ向く。


「……剣士の娘を連れてきたな」


レイナの心臓が強く打つ。


「はい、エルナです」


「殺して奪う力を持つ者」


全てが、繋がる。


「それは――」


「良い手段でないのは分かっている。」


先に告げられる。


「誇れぬ。正しくもない」


それでも。


「森が死ぬよりは、ましだ」


静かな宣告。



外ではエルナが、空を見上げている。


自分が、

森の運命の秤に乗せられているとも知らずに。


レイナは拳を握る。


明るく振る舞うことも忘れるほど、強く。


(違う)


正しい選択肢なんて、ない。


用意されるのはいつも、

痛みの大きさを比べる問いだけ。


それでも。


ここに呼ばれた意味は一つ。


逃げるな、ということ。


レイナは目を閉じ、深く息を吸った。


胸が痛む。


怖い。


迷っている。


それしかない。


――そしてエルナを連れてきてしまったのは、自分だ。


少しの後悔と静かな覚悟が、

ゆっくりと根を張っていった。


森は、何も語らない。


ただ選択の時だけを、

静かに差し出していた。

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