2.15
夜は深い。
風はほとんどなく、森は眠った獣のように静まり返っていた。
焚き火は、もう勢いを失っている。
赤い芯だけを残し、ときおり思い出したように小さく爆ぜた。
エルナは剣を拭いていた。
刃に付いた血を、布で丁寧にぬぐい取っていく。
力任せではない。
乱暴さもない。
それは儀式のように静かな手入れだった。
戦いの直後だというのに、呼吸は乱れていない。
――けれど。
拭う動きが、ほんのわずかにだけ、遅い。
レイナは少し離れた倒木に腰を下ろし、その様子を眺めていた。
弓は膝の上。弦には触れず、ただ指先だけを添えている。
「……エルナ」
静かな呼びかけ。
エルナは顔を上げる。
焚き火の光が横顔を照らし、まつ毛の影を長く落とした。
「何?」
短い返事。
いつも通りの声色。
レイナは一拍置いてから言う。
「さっきの戦い。……迷ってた?」
沈黙。
焚き火が、ぱち、と小さく音を立てた。
エルナは視線を剣に戻す。
だが、手は止めなかった。
「迷ってた、と思う」
即答だった。
誤魔化さない。
取り繕わない。
ただ事実だけを差し出す声。
「殺せば、簡単に終わる。
それが一番、安全なのも分かってる」
布が刃を滑る音だけが続く。
「でも……」
そこで、ようやく手が止まった。
「それが“正しい終わり方”なのか、分からなくなる」
レイナは静かに息を吐いた。
責めるでもなく、慰めるでもない。
理解している者の呼吸だった。
エルナは続ける。
「奪った力を使うことには、抵抗はない。
もう何度も、それで生き延びてきた」
刃の曇りを確かめるように掲げる。
火の赤が、金属に揺れた。
「でも――
“殺して奪う”その瞬間だけは……今も、慣れない」
弱さを見せる声ではない。
むしろ逆だ。
慣れないままでいることを、
自分で選び続けている人間の声だった。
レイナは小枝を一本、焚き火に放り込む。
火が一瞬だけ勢いを取り戻し、二人の影を揺らした。
「それ、悪いことじゃないと思う」
「……そう?」
「少なくとも、私はね」
レイナは炎を見つめたまま、ゆっくりと言葉を落とす。
「勇者パーティだった頃の私は、迷わなかった」
淡々とした口調。
だがその奥に、乾いた重みがある。
「迷わない方が、強かった。
迷わない方が、仲間を守れた。
迷わない方が、“正義”でいられた」
火の粉が、夜へ舞い上がる。
「……でもね」
ほんの少しだけ、声が柔らいだ。
「迷わなかったことを、
その後ずっと、考え続けることになった」
エルナの視線が上がる。
レイナは炎を見つめたまま、動かない。
「迷うって、余裕がないと出来ない。
本当に追い詰められてたら、人は選ぶことをやめる」
静かに、しかし確信を込めて。
「でも今のあなたは違う。
“生き延びるためだけ”の剣じゃない」
エルナは目を伏せ、小さく息を吐いた。
「……自分でも、そう思う」
「だったら」
レイナは初めてエルナを見る。
「その迷いは、きっと捨てちゃいけない」
夜が静まり返る。
虫の声が、遠くで波のように重なっていた。
やがてエルナが口を開く。
「最近の魔族……前より静か」
「うん」
「無差別な襲撃も減ってる。
組織だった侵攻もない」
「私も感じてる」
レイナは頷く。
「魔王が何を考えてるのかは分からない。
でも少なくとも、“ただ攻めるだけ”じゃない」
エルナは炎の奥を見つめる。
揺れる火の向こうに、見えない何かを探すように。
「……リュナが今、何を目的にしてるかがすごく気になる」
レイナは、ふっと笑った。
「それ、前の勇者パーティじゃ絶対出なかった発想だよね。
あの時はとりあえず魔王を討伐しか考えてなかった」
「今は勇者パーティじゃないし、相手はリュナだからね」
その声は、焚き火の向こうから届いた。
ミラだった。
いつの間にか起きていたらしい。
「だから考える」
静かな瞳が火を映す。
「殺すべきか。止めるべきか。
奪うべきか。見逃すべきか」
「……迷い続ける」
レイナは弓を撫でる。
木の感触を確かめるように。
「いいと思う」
「即答だね」
「迷う人の方が――」
レイナは弦を軽く弾いた。
小さな、澄んだ音。
「矢を放つ瞬間、ちゃんと“選んでる”」
焚き火が、小さく弾ける。
エルナはゆっくり立ち上がった。
肩の力が抜けている。
「ありがとう。少し楽になった」
「それならよかった」
夜はまだ終わらない。
けれど二人の間には、
戦いの後の緊張とは違う静けさが流れていた。
それは――
迷いを、弱さとして隠さなくていい場所。
同じ問いを抱えながら、
それでも前に進もうとする者同士の静けさだった。




