2.14
朝の森は、昨日よりも静かだった。
鳥も鳴かず、
風さえ音を潜めている。
レイナは足を止めずに先を歩き、
後方をエルナとミラが一定の距離で続く。
境界石へ向かうこの道は、
もう何十年も使われていない。
踏み固められることのない獣道。
人の靴底に削られることのない柔らかな土。
(……ここも、昔は違った)
矢を番えたまま、歩く。
この辺りには、かつて見張り小屋があった。
人間とエルフが交代で詰め、
境界を“侵すため”ではなく、
“守るため”に立っていた場所。
今は、礎石すら見当たらない。
森は、痕跡を呑み込む。
◇
境界石は、森の奥――
大樹が円を描くように囲む、少し開けた場所にあった。
苔に覆われ、
文字の半分は読めなくなっている。
それでも、刻まれた文言は分かる。
《ここより先、伐採・開拓を禁ず
両種族の合意により定める》
エルナが、ゆっくりと近づいた。
「……思ってたより、ちゃんとしてますね」
「ええ。最初はね」
レイナは石の裏へ回る。
そこには、人間語で書かれた、後年の追記があった。
《暫定的に開拓を許可
人口増加への対応のため》
掠れてはいるが、
内容ははっきりと分かる。
エルナが眉をひそめる。
「合意、って……」
「取ってないわ」
即答だった。
「少なくとも、森側は」
エルフの会議は長い。
慎重で、保守的で、
何十年もかけて結論を出す。
だが――
この追記が刻まれた時、
その会議は、まだ終わってすらいなかった。
(人間は、待たない)
善悪の話ではない。
ただ、
時間の流れ方が違う。
その差が、軋轢になる。
◇
ミラが、ふと足を止めた。
「……誰かいるわね」
声は低く、静か。
だが確かな緊張を帯びている。
レイナは周囲の気配を読む。
――いる。
敵意は、薄い。
だが隠れる気もない。
「出てきなさい」
静かな呼びかけ。
木陰から、ゆっくりと一体の影が現れた。
小さな角。
瘴気を抑える外套。
魔族――だが戦装束ではない。
「警戒されるのは承知している」
流ちょうな共通語。
「だが、話をしに来ただけだ」
エルナの肩が、わずかに強張る。
(……隙がない。)
立ち姿に淀みがない。
レイナは矢を下ろさない。
「用件は?」
魔族は境界石を見やり、
かすかに目を細めた。
「それを見に来た」
「懐かしいものだ。
まだ残っていたとはな」
レイナの視線が鋭くなる。
「あなた、ここを知っているの?」
「ああ。――戦争になる前にな」
一拍。
「魔族は人間より長命でな。
愚行が積み重なる様を、何度も見てきた」
指先が、境界石をなぞる。
「それを証明するひとつが、これだ」
◇
魔族は、名を名乗らなかった。
だが語り口が示している。
――ただの兵ではない。
「先代の魔王は」
低い声。
「人間を攻める気はなかった」
エルナの視線が鋭くなる。
「魔族にとって侵略は合理的ではない。
瘴気の流れを壊し、
資源を焼き、
やがて自らの生存圏を狭める」
「……じゃあ、なぜ戦争に?」
ミラが静かに問う。
魔族はわずかに沈黙した。
「理由が、作られた」
空気が張り詰める。
「人間側が恐怖を正当化する理由。
魔族側が武を振るう理由」
視線が森の奥へ向く。
「そして、その“理由”の一つが――
人と魔の狭間に落とされた、子供だった」
空気が、凍る。
エルナの息が、一瞬、詰まった。
(……リュナ)
魔族は、多くは語らない。
ただ静かに告げる。
「今の魔王は違う」
「目的がある。
侵略ではなく――奪還だ」
「奪還?」
エルナの声は低い。
「失われた均衡。
引き裂かれた理。
歪められた因果」
一瞬、視線が交差する。
「……魔族側の“意思表示”のようなものだ」
◇
沈黙が落ちる。
魔族は敵意を向けぬまま、後退る。
「今日のところは、これだけだ」
「次に会う時は?」
レイナが問う。
魔族は、わずかに口角を上げた。
「その時は――
互いの立場が、もう少し明確になっているだろう」
そう言い残し、
森の瘴気に溶けるように消えた。
◇
しばらく、誰も動かない。
やがて。
「……思ってたより、壊れてる」
エルナの声は小さい。
「ずっと前から、人間によって」
レイナは境界石に手を置く。
冷たい感触。
約束の残骸。
「ええそうね。」
静かに頷く。
「でもね」
振り返る。
「壊れた理由を知ることと、
どう直すかを選ぶことは――別よ」
エルナは拳を握る。
殺して奪えば早い。
力も、結果も、すぐに手に入る。
――けれど。
それは“直す”ことではない。
森を渡る風が、三人の間を抜ける。
境界は、もう守られていない。
それでも。
越える意味を考え続ける者たちが、
ここにいる。
その事実だけが――
かすかな希望だった。




