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2.14

朝の森は、昨日よりも静かだった。


鳥も鳴かず、

風さえ音を潜めている。


レイナは足を止めずに先を歩き、

後方をエルナとミラが一定の距離で続く。


境界石へ向かうこの道は、

もう何十年も使われていない。


踏み固められることのない獣道。

人の靴底に削られることのない柔らかな土。


(……ここも、昔は違った)


矢を番えたまま、歩く。


この辺りには、かつて見張り小屋があった。


人間とエルフが交代で詰め、

境界を“侵すため”ではなく、

“守るため”に立っていた場所。


今は、礎石すら見当たらない。


森は、痕跡を呑み込む。



境界石は、森の奥――

大樹が円を描くように囲む、少し開けた場所にあった。


苔に覆われ、

文字の半分は読めなくなっている。


それでも、刻まれた文言は分かる。


《ここより先、伐採・開拓を禁ず

 両種族の合意により定める》


エルナが、ゆっくりと近づいた。


「……思ってたより、ちゃんとしてますね」


「ええ。最初はね」


レイナは石の裏へ回る。


そこには、人間語で書かれた、後年の追記があった。


《暫定的に開拓を許可

 人口増加への対応のため》


掠れてはいるが、

内容ははっきりと分かる。


エルナが眉をひそめる。


「合意、って……」


「取ってないわ」


即答だった。


「少なくとも、森側は」


エルフの会議は長い。

慎重で、保守的で、

何十年もかけて結論を出す。


だが――

この追記が刻まれた時、

その会議は、まだ終わってすらいなかった。


(人間は、待たない)


善悪の話ではない。


ただ、

時間の流れ方が違う。


その差が、軋轢になる。



ミラが、ふと足を止めた。


「……誰かいるわね」


声は低く、静か。


だが確かな緊張を帯びている。


レイナは周囲の気配を読む。


――いる。


敵意は、薄い。

だが隠れる気もない。


「出てきなさい」


静かな呼びかけ。


木陰から、ゆっくりと一体の影が現れた。


小さな角。

瘴気を抑える外套。


魔族――だが戦装束ではない。


「警戒されるのは承知している」


流ちょうな共通語。


「だが、話をしに来ただけだ」


エルナの肩が、わずかに強張る。


(……隙がない。)

立ち姿に淀みがない。


レイナは矢を下ろさない。


「用件は?」


魔族は境界石を見やり、

かすかに目を細めた。


「それを見に来た」


「懐かしいものだ。

 まだ残っていたとはな」


レイナの視線が鋭くなる。


「あなた、ここを知っているの?」


「ああ。――戦争になる前にな」


一拍。


「魔族は人間より長命でな。

 愚行が積み重なる様を、何度も見てきた」


指先が、境界石をなぞる。


「それを証明するひとつが、これだ」



魔族は、名を名乗らなかった。


だが語り口が示している。


――ただの兵ではない。


「先代の魔王は」


低い声。


「人間を攻める気はなかった」


エルナの視線が鋭くなる。


「魔族にとって侵略は合理的ではない。

 瘴気の流れを壊し、

 資源を焼き、

 やがて自らの生存圏を狭める」


「……じゃあ、なぜ戦争に?」


ミラが静かに問う。


魔族はわずかに沈黙した。


「理由が、作られた」


空気が張り詰める。


「人間側が恐怖を正当化する理由。

 魔族側が武を振るう理由」


視線が森の奥へ向く。


「そして、その“理由”の一つが――

 人と魔の狭間に落とされた、子供だった」


空気が、凍る。


エルナの息が、一瞬、詰まった。


(……リュナ)


魔族は、多くは語らない。


ただ静かに告げる。


「今の魔王は違う」


「目的がある。

 侵略ではなく――奪還だ」


「奪還?」


エルナの声は低い。


「失われた均衡。

 引き裂かれた理。

 歪められた因果」


一瞬、視線が交差する。


「……魔族側の“意思表示”のようなものだ」




沈黙が落ちる。


魔族は敵意を向けぬまま、後退る。


「今日のところは、これだけだ」


「次に会う時は?」


レイナが問う。


魔族は、わずかに口角を上げた。


「その時は――

 互いの立場が、もう少し明確になっているだろう」


そう言い残し、

森の瘴気に溶けるように消えた。



しばらく、誰も動かない。


やがて。


「……思ってたより、壊れてる」


エルナの声は小さい。


「ずっと前から、人間によって」


レイナは境界石に手を置く。


冷たい感触。


約束の残骸。


「ええそうね。」


静かに頷く。


「でもね」


振り返る。


「壊れた理由を知ることと、

 どう直すかを選ぶことは――別よ」


エルナは拳を握る。


殺して奪えば早い。

力も、結果も、すぐに手に入る。


――けれど。


それは“直す”ことではない。


森を渡る風が、三人の間を抜ける。


境界は、もう守られていない。


それでも。


越える意味を考え続ける者たちが、

ここにいる。


その事実だけが――


かすかな希望だった。

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